『慶應義塾百年史』によれば、第1回の演説会が持たれたのは同年7月1日のことであった。演説の内容は時事問題を中心に、政治談議、学術発表などであり、当初は会員だけによる弁論術の研究会であった。
やがて、世人(せじん)の啓蒙(けいもう)のためには、演説の法を世間一般に普及させることが必要であるとの認識が会員の中に深まり、三田慶応義塾構内に演説会堂の建設が発議され、翌明治8年5月1日、開館の運びに至っている。
演説館の施設概要は次のとおりであるが、聴衆500人を収容しうる広さであり、わが国最初の演説会堂であった。
[図1] 三田演説館(慶應義塾広報室提供)
[図2] 三田演説館内部(慶應義塾図書館所蔵)
建物の内部は、当時としては最も新しいオーディトリウム(講堂)の形式がとり入れられている。玄関を入ると正面に演壇があり、その背面には曲面の壁をめぐらし、中央の聴衆席は天井が高く2階まで吹き抜けとなっている。その2階は左右にギャラリーを配し、小規模ではあるが、完全な講演室のプランがすこぶる巧みに実現されていた。そして音響的にも採光的にも十分な注意がはらわれている。
三田演説館概要
明治八年 建造
同 年五月一日 開館
洋風、木造、かわらぶき、なまこ壁
床面積 一九二・一六六平方メートル
一部二階、ほかに付属便所あり
総面積 二九〇・三四八平方メートル
三田演説会のその後の経過について『慶應義塾百年史』では次のように述べている。
三田演説会 明治八年五月一日、演説館の開館式をもって慶応義塾の演説を公開したことは前述の通りである。この時から演説会会員(本員)外の出席を許した。そして明治九年の二月までは、演説会のほかに討論会、持論会(会員だけで自説を弁論して批判をうけるやり方)までもおこなって活発な論戦を展開していたのであるが、『三田演説日記』によると、明治九年三月以降は公開演説会だけを開催している。そして明治一〇年四月二八日に三田演説第百会の記念大会をおこなった。外員出演者は森川純一、鹿島秀磨、井上良一、江口高邦、矢田部良吉、江木高遠、本員の出演者は和田義郎、猪飼麻次郎、箕浦勝人、四屋純三郎、坪井仙次郎、中野松三郎、福沢諭吉で、当日は第百会の記念会であったので聴衆はすこぶる多かったということである。
塾外の大井憲太郎が三田演説会の討論会に傍聴を申し出て特に出席を許されたことは前にしるしたが、明治十三年ごろになると、国友会会員大石正巳や佐伯剛平などが外員として三田演説会に出演したほかに、佐田介石も数回出演している。また明治十七年(一八八四)からは外国人の出演もあった。イギリス人デニング(Walter Dening)やアメリカ人イーストレーキ(Frank. w. Eastlake)も連続して演壇に立っている。三田演説会は明治十三―四年ごろから毎回多数の聴衆があったが、ときには立錐の余地がないどころか、堂にあふれて演説館を取り巻いて出演者の熱弁に耳を傾けることもあった。ただ演説を聞くばかりではない。この演説、特に福沢の演説から思想的栄養を採ろうと熱心に三田演説会を聴講した者もあった。その顕著な例として、植木枝盛をあげることができる。植木は土佐出身の自由党党員で、自由民権運動史の中でその存在を相当高く評価されている人物であるが、彼は土佐から上京した機会などにしばしば三田に来て演説会を聴講した。『植木枝盛日記』によると、明治八年六月五日にはじめて三田演説会に来会してからは、慶応義塾出版の『民間雑誌』『家庭叢談』や福沢の著『文明論之概略』を耽(たん)読したばかりでなく、小幡篤次郎の『英氏経済論』など、その他義塾関係者の出版物を読んでいることがわかる。彼の日記によると三田演説会には明治八年八回、明治九年に七回、明治十一年には二回、十三年、十四年には各一回ずつ来会していることがわかる。(『慶應義塾百年史』)
この先進的な演説会は、世人の関心を呼び、広く聴衆を集め、人々の啓蒙に大きな役割を果たしていたが、芝の三田にあったので、この盛況から港区地域住民の参加者もあって、かなり大きな影響を受けていたのではないかと思われる。