明六社と共存同衆

384 ~ 384 / 417ページ
 三田演説会と同様に、知識中心型の啓蒙のための社会教育の中心的な役割を果たしたものに、明六社と共存同衆をあげることができる。その主な活動の場は港区地域ではなかったが、出版活動や演説会の開催によって、知識人を中心に大きな影響を与えた。
 
■明六社
 森有礼、福澤諭吉の主唱によって明治6年に結成された学会ともいうべきものである。結成の翌年明治7年3月から、機関誌『明六雑誌』を発行した。この雑誌は43号まで発行されたが、時事問題、家庭教育、政策論等多岐にわたる主張や解説が掲載されていた。
 また、明治7年の冬から明六社の会合でも演説を始めたようであり、明治8年には、築地の精養軒で演説会が行われた際、精養軒では左のような公告を出して入場券を配布したという(『慶應義塾百年史』)。
 
  明六社会演説聴聞望の方へ 来る十六日より社の許を受け毎月一日、十六日午後一時、当軒にて当分三十枚を限り切手相渡申候。
   但席料として八銭づゝ申受候事。
    明治八年二月一日          築地二橋 精養軒
 
■共存同衆
 小野梓の提唱によって明治7年9月に結成されたもので、明六社の会員が学界の大家ばかりであったのに比べ、共存同衆は欧米に留学して帰朝したばかりの、新進気鋭の青壮年学者の学会であった。明治10年、京橋日吉町に会館を建設し、共存同衆館といった。
 共存同衆では、演説討論会のことを講談会といったが、明治12~13年のころには各所で講談会を開催した。慶応義塾の講談会では、福澤諭吉らも客演したとのことである。また、明治8年1月には機関誌『共存雑誌』を発行し、明治13年5月、67号まで続いた。
 これらの演説会や活動と、港区地域の人々との関わりは明らかではないが、出版物は、かなり読まれたのではないかと思われる。