日就社と読売新聞

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 明治の新聞界は、旧幕府系の新聞人によって、東京を中心として発生し、明治5年ごろから活発化して、近代的な形態をととのえたという(『東京百年史』)。
 
■日就社[図3]
 『読売新聞百年史』によると、明治3年、子安峻ら3人によって横浜に創立された印刷所で、維新期における活版印刷所の草分けである。明治6年に芝琴平町へ移転して新聞発行の準備をしている。当時の社屋は、もと播州山崎藩、本多肥後守江戸屋敷の大名屋敷を借り受けたもので、内部のしきりを2、3区画ほど打抜いて、社屋と工場に改造したものであったという。銀座に移転する明治10年まで、この地で営業した。
 

[図3] 日就社(『読売新聞社史』)

 
■読売新聞
 子安峻・本野盛享、柴田昌吉の3人によって創刊されたのは、明治7年11月2日のことである。創刊者の3人が、ともに洋学者であったところが他の新聞にない特色となっていた。そして、東京府第二大区二小区芝琴平町1番地(現在の港区虎ノ門1―2)にあった活版印行所・日就社が発行所であった。子安峻はさきにあげた共存同衆のメンバーであり、その縁で後年小野梓も執筆陣に加わっている。
 

[図4] 読売新聞第1号(読売新聞 1874年11月2日)

 読売新聞の大きな特色は、記事全文に、通俗語で、例えば「布告(おふれ)」「裁判(おさばき)」などの傍訓(ぼうくん)を施し、最初から広く大衆を対象にしたことであった。このような当時としては異色に属する傍訓新聞を発行した趣旨について「子安峻略歴」には「元来、氏の抱負は泰西文明を輸入し、国家を益せんとするにあり。」(『同百年史』)と書いてある。
 このことは『読売新聞』という題号にも表われている。題号の決定にあたって、『通俗新聞』『ふりがな新聞』あるいは婦女子も読むのであるから、『やはらぎ新聞』や『をみな新聞』など、さまざまな案が出されたが、江戸時代以来のかわら(瓦)版の呼び名がよみうり(読売)といわれていたこともあり、新聞の販売方法として、町中での読み売り(呼び売り)を主体とするのであるから、それをそのまま題号にしたらよろしかろうということになったという。このことからも、大衆新聞としてスタートした同紙の姿勢が読みとれる。
 創刊号は、縦26センチ、横35センチの西洋紙1枚、両面印刷2ページの新聞であった。紙面は各面2段、1段5号活字30字詰め46行を基準として「布告(おふれ)」「新聞(しんぶん)」「説話(はなし)」「禀告(しらせ)」の4欄に分かれ、それぞれ官令と通達、「社会雑報」の解説や教訓的記事、及び社告を掲載している[図4]。
 明治の初年代は国内各分野の改革が急ピッチで進められた時代であったが、そのため、政府の布告、官令、通達が矢継早に発せられた。このような情勢の中で、同紙は大衆啓発を主眼として、大衆の生活に関係深いものを選んで報道している。
 平民に姓をつけるよう命じた「太政官(だじょうかん)布告」「コレラ予防規則」「徴兵改正規則」など、かみくだいた説明文を添えた記事は、大衆の大きな歓迎をうけたという。
 また、説話欄にも力を入れ、「蟻ときりぎりす」や「獅子と三疋の相談相手の話し」など、イソップ物語などからとった教訓的常話をしばしば掲載している[図5]。
 創刊当初の発行部数は200~300部であったが、西南の役(明治10年)のころには2万部を突破している。
 売り子の「これは、このたび虎ノ門で売り出しましたる読売新聞……」の呼び売りは、町の風物詩であったが、これは、明治11年には廃止された。
 本区に同社があったのは、わずか5年にすぎなかったが、報道の持つ社会教育的な意義を考えるとき、同社の存在は港区地域における社会教育にとって大きな役割を果たしたということができる。
 現在、同社跡地付近には「新聞創刊の地」の碑が建立されている。
 

[図5] 読売新聞の記事。イソップ物語の紹介(読売新聞 1875年6月12日)