芝山内増上寺に設けられた大教院[図6]

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 明治政府は、祭政一致の方針から神祇(じんぎ)官を復活し、神仏分離令を出して大教宣布(だいきょうせんぷ)を行ってきたが、明治5年(1872)3月14日に教部省を設け、神道国教による国民教化をはかる大教宣布の実践機関とした。そしてこの教化の方針として、次の3条の教則を定めた。
 
  第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事
  第二条 天理人道ヲ明ニスヘキ事
  第三条 皇上ヲ奉載シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
 

[図6] 大教院の設けられた増上寺(『芝区誌』)

 そして庶民教導を行う教導職として、神官、僧呂、国学者、儒者のみならず、講談師らの民間の芸能人まで動員したことは、前に述べたとおりである。
 神仏分離、排仏毀釈によって無力になった仏教界は、再興に力を入れるため、大教院を設置して教導職養成に努めようとした。そのために、麹町の元紀州藩邸跡の長屋に大教院を設けたが、明治6年に教部省によって芝の増上寺に移された。教部省は、大教院を神道中心の教団にすると同時に、増上寺の本尊を撤去して神殿を設け、しめなわを張り、山門の前には鳥居が建てられたという。
 教部省は、この政策を進めるために、神徳皇恩、皇政一新、富国強兵外国交際、神祭鎮魂などの十一兼題(けんだい)・十七兼題を設けて、民衆に対して教説を行わせた。仏教界は、3条の教則により、教義の伝導をすることができなくなり、僧呂は神官の下に立って動かざるをえなくなった。
 服部誠一の『東京新繁昌記』には、下町で庶民相手の説教がはじまり、説教場には白幣を奉安した祭壇を設け、衣冠束帯(いかんそくたい)の神官が敬神愛国の道を説き、隠居・丁稚・裏店の新婦など老幼男女が争って聞き、講釈師も勧善懲悪(かんぜんちょうあく)的な庶民教化の役割を果たしたと記してある。増上寺のあった港区地域の人々も、このような教化を受けていたものと思われる。
 『東京百年史』によれば、明治政府が大教宣布を行ったのは、キリスト教排撃の意図がその底にあったためと記している。
 政府は、条約改正での外交政策や、神道も仏教も独自の教理信条によって教化すべきであるとの仏教界からの反発、寺と檀家(だんか)という民衆のつながりなどにより、明治6年キリスト教禁制の高札を撤回し、明治8年には大教院を解散している。なお教部省は、明治10年に廃止された。