「他府県に於て小学校教員免許状を取得し本市に就職せむとする者に対し本市の学校教育に適切なる事項の講習」(原文はカタカナ)
東京以外で発行された免許状が東京で通用しないわけではないが、あえてその教師たちに講習を課すという。この講習所の大きな目的は、端的に言えば教師を「東京化」させることだった。
東京都公文書館に残される昭和4年(1929)9月の『東京市教員講習所に対する所懐』(東京市役所)は、この講習所の所長の所感を載せた小冊子的な資料である。この中で設立当初には年額6万3000円余りの予算を計上し、「多数の地方教員を東京化して本市に採用」したことが記載されている。ただ、設立当初には「単に多数の地方教員の東京化に主力を注ぎ」、かえって「誤解と反感を醸成」したことは遺憾だったと所長自らが反省的に述べている。
果たして、この「東京化」の内実はどのようなものだったのだろうか。
それは、単に東京の教育事情を知らしめることではなかった。「創設の趣意」では「教育上日新の研究修養を積ましめ、世界の大勢に後れざらしむるを要す」とうたっているが、この「世界の大勢」の言葉の中から「東京化」の真意が浮かび上がってくる。それは、大正期以来の「新教育」の動向を指していたと想像される(第5章コラム「『新教育』の戦前と戦後」を参照)。
この所懐は「殊に着々復興校舎完成せられつゝある今日」、東京市教員の研究修養機関としての機能の発揮が要望されているといい、将来は「教育思潮又は研究発表等の各種講習講演或は研究会をも開催する必要」があるとした。講習所が夢見た構想は、ひいては東京市立師範学校、つまり東京市が一から教師を育てる事業展開にまで及んでいたのである。
関東大震災後の「復興小学校」[図3]は単に地震等の災害に対する強化だけでなく、その機能が新教育の思想と密接に結びついていた。例えば、東京市の作成した校舎の図面に対して、学校側すなわち教師たちは研究を重ね、繰り返し改善を要望していたという。その要望の中には、教室における教壇の廃止など、教師側が一方的に教授する授業形式をより新教育的に変えていこうとする動きも含まれていた。
新教育にふさわしい学校であることを求めたのは東京市の学校側、すなわち教師たちだった。「東京化」の名の下、新たに東京市の小学校を支えていくことになる教師たちには、そこに広がりをみせていた「新教育」的な教育思想に触れておくことが求められたのだった。
(加島大輔・愛知大学准教授)
[図3] 復興小学校校舎(桜田尋常小学校『創刊五十年記念号』) 昭和4年、桜田小学校。