たとえば、人口の問題一つをみても、幕末以来、武家人口の大量流出で人口が激減した東京に、明治14年(1881)ごろより再び人口集中が始まっていた。明治23年以降の急激な人口増加は学齢児童の増加となって現われ、尋常(じんじょう)小学4年までの義務教育の普及、同41年以降の尋常小学6年までの義務教育延長、更には高等小学校教育の拡充という課題にどう対処していくかが、経済的事情と相まって常に大きな問題として、地域の人々にのしかかることになったのである。
江戸時代に大名屋敷を多く抱えていた港区地域は、明治維新後の富国強兵の政策によって陸軍用地、海軍用地として広大な土地を提供し、新政府の官僚の土地や屋敷も急速にふえた。また、広大な皇室用地も保存されていた。これらは主として赤坂区、麻布区に多くを占めていた。前時代より街道筋を抱えて町屋の多かった芝区は、3区の中では最も人口が多く、横浜と東京を結ぶ交通路を持ち、活気を見せ、日清戦争以後、近代的工場地域として発展したこともあって、人口増加が著しかった。
[図1]明治時代の芝・麻布・赤坂区の人口の推移
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 港区地域の人口
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 区内世帯数と一世帯当たり人員