人口の急増傾向[図1]

3 ~ 5 / 370ページ
 明治も後半に入り、「大日本帝国憲法」の発布(1889年)、帝国議会の開設(1890年)、日清(1894~1895年)・日露(1904~1905年)の戦争を経て、日本は近代国家としての体制を確立し、首都東京も、そして芝・麻布・赤坂区にわたる地域社会もしだいに変貌(へんぼう)していった。土地利用や集落形成の変化、商工業や交通機関の発達など、地域社会や生活の変化は、地域の教育の展開の背景となって教育の進展のうえで多くの課題をもたらし、地域の人々に格別の努力と協力を求め続けた。
 たとえば、人口の問題一つをみても、幕末以来、武家人口の大量流出で人口が激減した東京に、明治14年(1881)ごろより再び人口集中が始まっていた。明治23年以降の急激な人口増加は学齢児童の増加となって現われ、尋常(じんじょう)小学4年までの義務教育の普及、同41年以降の尋常小学6年までの義務教育延長、更には高等小学校教育の拡充という課題にどう対処していくかが、経済的事情と相まって常に大きな問題として、地域の人々にのしかかることになったのである。
 江戸時代に大名屋敷を多く抱えていた港区地域は、明治維新後の富国強兵の政策によって陸軍用地、海軍用地として広大な土地を提供し、新政府の官僚の土地や屋敷も急速にふえた。また、広大な皇室用地も保存されていた。これらは主として赤坂区、麻布区に多くを占めていた。前時代より街道筋を抱えて町屋の多かった芝区は、3区の中では最も人口が多く、横浜と東京を結ぶ交通路を持ち、活気を見せ、日清戦争以後、近代的工場地域として発展したこともあって、人口増加が著しかった。
 

[図1]明治時代の芝・麻布・赤坂区の人口の推移

関連資料:【図表および統計資料】教育行政 港区地域の人口
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 区内世帯数と一世帯当たり人員