文明開化の中心地として急速に近代化の道をたどった東京では、伝統的な手工業は衰退し、代わって産業資本に基づく商工業が台頭してくると、地方の農村地帯から都市労働者としての流入人口が増加した。特に、近代的工場地域として発展し始めた芝浦地区を抱える芝区への人口流入は、この年の調査によると10万人を越え、新しい住宅地域、商業地域としての発展が著しかった。
この流入人口は、多くが低賃金による労働力の供給源ともなり、地域社会形成の役割を担うようになっていった。
明治32年7月より実施された改正条約による寄留(きりゅう)外国人も多かった。明治41年ころの調査では、芝区76人、麻布区214人、赤坂区136人で、東京市在住4216人中、約10パーセントを占めた。地方からの人口集中による近代都市的性格とともに、すでに国際性も帯びてきていたのである。これらの外国人の中には、私立学校において、あるいは社会福祉的な活動において、直接港区地域の教育に深い関係をもった人々も少なくなかった。
[図2]明治20年以降の出入寄留者数
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 港区地域の人口