明治22年8月に勅令として出された「東京市区改正条例」は、首都東京の市街地改造計画を制度化したものであった。同条例に基づき政府が設置した東京市区改正委員会より答申された基本計画は、当時の15区を対象に、道路、河川、橋梁(きょうりょう)、外濠(そとぼり)整理、鉄道、公園、市場、屠場(とじょう)、火葬場、墓地など広範囲に及んでいた。この計画に基づく改正事業によって、新橋―上野間の高架線による鉄道線路の建造や、芝新網町・湊町の金杉川沿岸の芝魚市場、芝白金村今里玉縄の白金獣畜市場の新設、青山墓地の拡張整備、東京港の築港などが進められていった。
事業の一環として行われた水道改良事業は、前年度に続き明治19年夏に大流行したコレラによる死者が、東京府管内で、9879人にも達したという大事件に促されて着手されたものであった。浄水場を淀橋に決め、低地給水場を本郷と芝とに設置した。芝給水場は、初め麻布に設ける予定であったものを、明治24年に変更したもので、同29年8月竣工(しゅんこう)、同32年1月から各戸給水工事に着手し、しだいにその給水区域を拡大していった。