明治30年代に勃興(ぼっこう)した重化学工業は、日清・日露の二つの戦争を通して需要を伸ばし、生産も拡大していった。明治39年(1906)から始まった隅田川改良工事に伴う東京港築港と、浚渫(しゅんせつ)工事によってできた芝浦地域の埋立地には、倉庫街が発展するとともに、新しい工場も増加し、工場街化する傾向を見せ始めていた。
それらの工場のうち、明治15年、芝金杉新海町に設立された田中機械製作所は、同22年には、年間に電機器機その他608点を製造するなど大いに奮ったが、その後経営難に陥り、同26年三井銀行に譲渡されて以後、芝浦製作所と名称を変えた。同34年12月の調査では職工数441を数えた。
このほか、本芝入横町の池貝鉄工所、三田四国町の日本電気など、今日まで続く工場を始めとして、大小の機械・器具製造工場がこの地区に集中していったのである。