商業の近代化

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 明治23年(1890)は、前年に続く飢餓の年であった。物価の高騰と自由競争の中で、新旧商家の淘汰(とうた)が進行していき、旧幕時代にさかんだった大店(おおだな)や問屋の中にも姿を消すものがでるようになった。
 

[図4]芝公園の勧工場

 明治21年1月に芝公園の中に創立された勧工場(かんこうば)[図4]は、第1回内国勧業博覧会閉会後に、売れ残った出品物を売りさばくために麹町区に第一勧工場が作られたのが始めであった。呉服・洋品・化粧品・小間物・陶器・玩具・漆器・文房具・家具・銘木に至るまであり、名店街風のデパートとでもいうようなものだった。各地に開場された勧工場の中で、この芝公園のものが一番規模が大きく、下町からも山の手からも買物に来たといわれる。
 山の手に属する麻布区、赤坂区の屋敷町では、下町の商店から若い衆がきちんと帯をしめて御用聞きにくるという、外売りがさかんであった。比較的高所得者の割合の多かったこれらの地域では、高級品、贈答品、誂(あつらえ)の物などを、主として外売りに依存したため、区内の商店は日常生活用品の販売に力を注ぐ結果となっていった。