明治39年の東京市内大地主の調査によると、麻布の旧棚倉藩主、阿部正功の4万1千坪、芝の松方正義の3万1千坪を筆頭に、市内の大地主は、芝、麻布、赤坂の3区に集中している。
しかし、こうした屋敷町のそばにも、一般庶民の素朴な家並みがあった。
町並みは、まだ草葺(ぶ)きと板葺きの家ばかりでしたが、八歳の時大火があり、二百軒ほど焼けました。そこで、初めて瓦(かわら)屋根の家が建ちました。電気のはいっていたのは学校くらいで、一般家庭はランプのガス灯でした。
又、今井町あたりでは茶摘みができましたし、一丁目には沼があって、最光寺の鶴見橋には鴨(かも)がおりていたという話があります。夏の谷町通りには、夕方になると縁台が並び、夕涼みを楽しむ姿が見られました。
(『麻布小学校創立百年沿革史』)
交通機関の発達、人口の増加、物価の上昇等による地価の騰貴(とうき)は著しく、多くの人々は借家人とならざるを得なかった。明治29年ごろには高輪、麻布の地帯は一坪12・3円から15円の値がついたという。区内の空地に新築の貸家が現われ、特に、芝の育種場跡には500戸以上も建てられた。
[図5]明治期の戸数
日清戦争のころになると、不景気も影響して空家になるところもあったというが、空地は徐々に消えていった。