「憲法」制定に着手していた明治政府は、明治22年2月11日、欽定(きんてい)憲法として「大日本帝国憲法」を発布した。
しかし、一般に「憲法」発布の意味は浸透しておらず、中には「天子さまが絹布(けんぷ)の法被(はっぴ)を下さる」のだと、思いこんでいる者もあったという。
同二十二年二月十二日憲法発布式ノ大典ニ遭(ア)フ
嗚呼(アア)千載ノ一遇聖世ノ洪恩(コウオン)誰レカ感泣セサルモノアラン誰レカ燕舞(エンブ)セサルモノアラン本校職員生徒モ亦タ奮テ此大典ヲ祝賀セントシ父兄ニ謀(ハカ)リ有志ニ詢(ハカラ)ヒ之レカ計画ヲ為シ遂ニ神宝ノ祝標ヲ製シ職員生徒一同鳳輦(ホウレン)ヲ葵(アオイ)阪ニ迎へ奉ル畏(カシコ)クモ
竜顔殊ニ麗ハシク為メニ讃賞セサルモノナカリキ(『桜川小学校沿革誌』)
当日、東京府下の小学校児童には、前年にできていた「紀元節(きげんせつ)」の歌(作詞高崎正風 作曲伊沢修二)を奉祝歌として歌わせることになった。「紀元節」が国祭日となっているあいだ歌われた奉祝歌は、この「憲法」発布を祝うことを兼ねるかたちで普及することになった。
「憲法」発布を祝う興奮は、国民の誰もが政治に参与できるような気分を生み、政治を論じる稽古(けいこ)熱といった気風も現われた。麻布小学校の日誌[図6]では、明治22年5月から、生徒の演説会の記事が急に表われてくる。演説会は、やがて談話会という表現に変わり、同年12月で消えている。
[図6]麻布小学校日誌
また、このころ、区内各小学校は競って校章・校歌・校旗を制定している。