政府は当初「教育ヲシテ普及ナラシメンガタメ府県ニ委託シ其学区ヲ助ク」として、明治5年には30万円、同7、8年には70万円の補助金を支出していたのだが、小学校の教育が進むにしたがって政府からの支出は減少し、同13年に至って補助金は止んでしまった。そのころ、まだ300万人近くの学齢児が未就学であるとして、学齢児を就学させるには、どうしても政府が補助金を出していかなければならないという意見も出されていた。
明治19年の「小学校令」において、小学校の経費は児童の授業料を主要財源とすることになったとき、月謝のいらない小学校簡易科を設けて尋常小学校に代用するものとし、この経費は区町村費でまかなうことを定められた。この簡易科は、「生活困窮者」の子弟の就学の便を考慮したものであった。明治23年の改正令ではこの点に留意し、簡易科を廃し、その代わりに就学義務年数を従来の4年を改め、4年又は3年とした。「少なくとも3年」ということで、弾力性をもたせたのである。また、授業料についても実情に合った形をとるよう配慮した。
私立小学校を認め、代用私立小学校として公立小学校を補うものとしたのも、実情に合致したものであった。
今でこそ我が芝区内には二十という沢山の小学校がありますけれども、あの頃は公立といわれる小学校が僅かに六つを数えるばかりでありました。しかし、公立小学校の外に、各所に私塾見たいなものがあって、多くはその私塾に通っているのでありました。今日では私立の学校は金がかかるといって、なるべく金のかからないような公立の学校を選びますけれども、あの当時は只今とはあべこべで、公立学校の方が余計に学資が要るのでありました。(中略)私立の学校になると、服装なんか少しも構わず、何でも質素々々でなるべく金のかからないようにというやり方でありました。(後略)(『桜川小学校記念誌』)
代用私立小学校は、公立小学校の不足を補い、就学児受け入れに大きな役割を果たしながらも、補助金はないうえに規制や監督はきびしく、公立小学校の充実にともなって消滅していく運命にあった。
このような臨時の措置がとられても、なお未就学の問題は残った。私立学校へも通わすことのできない「生活困窮者」の子弟や、昼間働く児童の就学問題である。これらの者の就学のために、麻布区の養育学校とか、赤坂区の義立協愛学校、あるいは麻布区の庶民夜学校といった宗教人や区学務委員と、それを援助する篤志家による、いくつかの学校が設立され運営されていった[図9]。それらの学校は、やがて市の直営の学校として、あるいは公立小学校の分校として、または市立尋常夜学校として公立学校に組み入れられていくのである。
教育費国庫補助実現のための政治運動は、明治25年ごろより始まる。これに関する請願によると、「学齢児童数七百余万人のうち就学者は三百四十余万人、不就学者は三百六十余万人」と述べられている。国庫補助の請願は、同26年、貴族院・衆議院において審議可決された。
こうして、明治32年10月に至って「小学校教育費国庫補助法」がようやく定められ、翌33年4月1日より実施された。同年「小学校令」が改正され、義務教育を無月謝にすることは一応達成された形になった[注釈6]。
[図9]麻布区私立庶民夜学校の様子(東京都公文書館所蔵)
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 教育費の変遷 一般会計決算総額と教育費決算額 (通年)(明治期)(昭和22~38年度)(昭和39年度以降)
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 一般会計決算総額と教育費決算額の割合 (通年)(明治期)(昭和22~38年度)(昭和39年度以降)