教育勅語渙発(かんぱつ)

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 「大日本帝国憲法」発布の翌年、明治23年(1890)10月30日、教育勅語(「教育ニ関スル勅語」)は渙発された[図10]。
 時の文相、芳川顕正は、
 
 勅語ノ謄本ヲ作リ普(アマネ)ク之ヲ全国ノ学校ニ頒(ワカ)ツ 凡ソ教育ノ職ニ在ル者須(スベカラ)ク常ニ聖意ヲ奉体シテ研磨薫陶ノ務ヲ怠ラサルヘク殊ニ学校ノ式日及其他便宜日時ヲ定メ生徒ヲ会集シテ勅語ヲ奉読シ且意ヲ加ヘテ諄(ジュン)諄誨(カイ)告シ生徒ヲシテ夙夜(シュクヤ)ニ佩(ハイ)服スル所アラシムベシ
 
と訓示した。各学校は教育勅語の謄本の下賜(かし)を受け、早速勅語奉読会を行った[注釈7]。
 

[図10]教育ニ関スル勅語(『小学修身書』巻4・文部省著作)

 翌24年6月、文部省は「小学校祝日大祭日儀式規程」を制定し、学校によってまちまちであった国家祝祭日の学校儀式内容を統一していった。更に同年10月、「祝日大祭日中最敬礼の儀」の通達があり、同年12月、式歌を府県知事に通牒(つうちょう)、同26年8月には、祝日大祭日の儀式唱歌の歌詞、楽譜を決定した。
 このようにして、紀元節(きげんせつ)、天長節(てんちょうせつ)の大祭日には、全国の学校で同じような儀式が行われるようになった。「君が代」を唱し、勅語を奉読する間、生徒たちは頭を下げ、直立不動の姿勢でじっと立っていなければならなかった。そして、それぞれの日の祝歌を歌ったあと、小さな紅白の菓子をいただいて帰るのであった[図11]。
 

[図11]祝祭日の学校の風景(『風俗画報』64号・明治24年)

教育勅語では、国民は「臣民」とよばれ、忠と孝とを最高の道徳理念として生きてきたところに「国体ノ精華」があるとし、五倫の道(父子間の親、君臣の義、夫婦間の別、長幼の序、朋友(ほうゆう)間の信)に通じる実践道徳が強調された。
 また、修学、修業を通じて「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮(テンジョウムキュウ)ノ皇運ヲ扶翼(フヨク)スヘシ」とし、これが永遠の規範として、守られるべき人としての道であるとして、実践を促しているのである。
 この教育勅語の精神が、そのまま学校教育の修身科の根幹であり、歴史、国語の教育もこれらを軸として展開され、太平洋戦争が終るまでこれは変わらなかった。
 教育勅語の謄本は、一斉下賜された後、新設の公立小中学校はもちろん、代用私立小学校や夜学校にも下賜され、教育勅語を基本とする教育の徹底が図られた[図12]。
 

[図12]勅語謄本受領届・明治39年青南小学校(東京都公文書館所蔵)

 明治41年以降、尋常(じんじょう)小学校6年の義務制の実施後、廃校する私立小学校がふえたが、廃校の際、下賜されていた教育勅語の謄本は返納させられた。