教育勅語の渙発に先立って、天皇・皇后の御真影が各小学校に下賜された。
同二十三年二月十一日ノ紀元節ヲトシ宮内省ヨリ下賜セラレタリ
天皇皇后両陛下ノ御影(ギョエイ)奉迎式ヲ芝公園地内共同運動場於テ催セラル桜田男女両校桜川鞆絵芝南海御田ノ七校順次ニ排列シ生徒一同君が代ヲ唱(トナ)へ区長丸田正盛区会議員桧山銕三郎ノ演説アリ御影拝受ノ後本校生徒ノ中央ニ河野弘中両訓導之レヲ提ケ生徒集錦((ママ))旗ヲ建テ護衛帰校シ更ニ校内ノ式場ニ御影ヲ奉シ職員生徒一同拝礼シ校長ノ作歌(国の父とし母として吾等が常にうやまへる御影をここにむかへ来て祝ふ今日こそ楽しけれ)ヲ生徒ニ唱ヘシメ終リニ例ノ如ク蜜柑(ミカン)数個ヲ与ヘテ退散セシム同四月ニハ修業証並ニ卒業証授与式ヲ執行シ卒業生有志者ヨリ大日本分画地図掛図七軸ヲ寄附セリ此レ本校生徒卒業生寄附ノ嚆矢(コウシ)ニシテ爾(ジ)後毎年卒業生有志者ヨリ本校へ寄附スルコト慣例ノ如クナレリ同五月廿七八両日第三回内国勧業博覧会無料縦覧(ショウラン)ヲ本校生徒ハ許可セラレタルヲ以テ生徒三百有余名ヲ分ケテ上野ニ遣ル(『桜川小学校沿革誌』)
翌24年4月、「小学校設備準則」が公布[注釈8]され、御真影の奉置について定められ、これに基づいて各学校は奉安庫、奉安殿の設置を行った。港区地域の多くの小学校は、職員室内に奉安庫を設置した。
奉蔵された御真影は、儀式の都度掲げられ、最敬礼が行われ、その前で教育勅語の奉読が行われていた。この御真影は昭和21年(1946)に至って返納されるまでの間、極めて厳重で鄭重(ていちょう)な取り扱いがされていくことになった。