教員養成[図15]

32 ~ 35 / 370ページ
 明治19年3月、東京師範学校に女子教員養成の道を開く「文部省令」第1号が出されたあと、同年4月、「師範学校令」が公布され、それまで中学校と小学校の教員養成をあわせて行っていたものを分けて行うこととなった。高等師範学校は、東京に1カ所、尋常(じんじょう)師範学校は、府県に各1カ所設置することと定めた。同23年には、高等師範学校の女子部が独立して、女子高等師範学校となった。
 東京府教育会では、明治21年に芝公園内芝麻布共立幼稚園内に幼稚園保母講習所を開いていた[注釈9]が、翌22年3月、小学校教員速成伝習所を京橋区に開き教員養成に着手していた[注釈10]。
 明治25年、尋常師範学校の学科及びその程度についての改正があり、小学校教員の地位を強固にし、正教員の免許状を終身有効のものとするためには、尋常師範学校教育の学科目の程度は、全国同じでなければならないとした。
 

[図15]明治のころの教職員・明治44年麻布小学校(『麻布小学校卒業記念』)

 政府の小学校に対する補助金が明治13年に打ち切られて以来、学校の維持費は主として児童の授業料によったことはすでに述べたとおりだが、その結果として、就学率は停滞し、教員も低い給料に甘んじなければならなかった。
 就学児童の増加による教員不足を補うため、明治25年、尋常師範学校に簡易科が設置された。修学年限は2年4カ月で、男子のみを対象とした。教員の急需(きゅうじゅ)に応ずる、便宜的なものであっただけに、質の低下につながらないようにとの配慮がされた。
 このような状況の中で、東京府教育会の小学校教員速成伝習所の卒業生に対し、明治26年4月、教員資格授与の認可がされた[注釈11]。
 明治30年9月、師範学校生徒定員について、算出の根拠が明らかにされた。この規定は、戦前まで残っていたものである。
 
  師範学校ハ道府県管内学齢児童数三分ノ二ニ対シ一学級七十名ノ割合ヲ以テ算出スル全学級数ノ二十分ノ一以上ニ相当スル卒業生ヲ出スニ足ルヘキ生徒ヲ毎年募集スヘシ
 
 同年12月、尋常師範学校においても、なるべく男女を別の学校に分けるようにとの訓令があり、しだいに女子部は分離独立し、女子師範学校として設置されるようになった。
 東京府立師範学校は、明治33年5月に、小石川区竹早町から赤坂区青山北町に移転してきた。第二の師範学校設置後、地名をとって青山師範学校と改称し、昭和11年(1936)までこの地にあった。
 日清戦争後、一般の教育への関心が高まり、就学率もようやく高まってくると、教員不足が問題となった。そこで、「教員免許令」が改正され、中学校の教員には、免許のない者でも教員に当てることができることとした。ただし、この無資格者は、教諭、助教諭のいずれをも称することができなかった。小学校も本科正教員の不足が多く、政府はこの補充に苦慮していた。師範学校、中学校、高等女学校についても同じであった。
 明治35年(1902)3月、臨時教員養成所を設け、急激な需要に応ずることになった。
 当時の教育関係者は、日清・日露の両戦争で勝利を得た原因は、国民教育普及の結果であると考え、「今回の戦いは、いわば我が日本国の小学教師は、露の小学教師に勝ちたるなり」などとして、これ以後、忠君愛国、敬神崇祖の念に強い教師を理想像とした教員養成が一層強調されていった。
 明治40年4月に定められた「師範学校規程」のうち、第1章 生徒教養の要旨第1条には、次のように記されている。
 
  第一条 師範学校ニ於テハ師範教育令ノ旨趣ニ基キ特ニ左ノ事項ニ注意シテ其生徒ヲ教養スヘシ
  一 忠君愛国ノ志気ニ富ムハ教員タル者ニ在リテハ殊ニ重要トス故ニ生徒ヲシテ平素忠孝ノ大義ヲ明ニシ国民タルノ志操ヲ振起セシメンコトヲ要ス(後略)