日清戦争と学校教育

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 朝鮮半島をめぐって清国との対立が激化し、明治27年(1894)8月1日、日本は清国に対して宣戦を布告した。明治になって、ついに大規模な外国との戦争を行うこととなったのである。
 これに呼応するように、赤坂区・麻布区内の小学校では、しばしば青山原頭に出て、軍隊の出征を送ったり、また、兵式教練を小学校でもさかんに行っていた。
教員の中にも召集令を受け、出征する者が出た[図16]。兵営をとりまく赤坂区、麻布区は、出征前の兵士たちでにぎわうようになった。
 

[図16]日清戦争と教員の召集(東京都公文書館所蔵)

 
  三四日前より麻布六本木通りの繁昌格別にして、旅店は申すに及ばず、茶屋、料理店、寺院等は大低充満し、湯屋等も兵士に買切られる勢にて六本木界隈(かいわい)にては兵士の寝食を充(みた)すこと能(あた)はず、しひて筓町、高樹町より桜田其他十番、飯倉に及び、紅葉館の如きは階上階下凡て兵士ならざるはなく、愛宕町の天徳寺近傍一円の寺院は悉(ことごと)く其使用となり、兵士の入営者来往織るが如く、父兄妻子は子を送り夫を慰め父を慕ひ、哀々離別の状掬(きく)すべく、相携へて旅亭に登り共に三杯の酒を傾けて、かたみに無事を祝する中に、兵士等は満顔紅を発し勇気凛然(りんぜん)として四辺を払ふもの多く、六本木の界隈(かいわい)の飲食店は不景気知らずの繁昌なりと。
   (『国民新聞』明治27年9月5日)
 
 明治28年11月に行われた赤坂区の連合運動会は、近くで軍隊の教練が行われていたため、軍人が観覧したり、天皇の広島からの還幸(かんこう)には、校長が総代として参加したり、戦争は、さまざまな形で学校に影響を与えていた。
 日清戦争が終ったあとも、男子有志者には撃剣を教え、更に兵式体操を一層奨励するため、麻布小学校では村田銃を更に新調するなどした。また戦利品の数々が、個人から寄附されたり東京府からも各小学校に下付され、それぞれの学校では展示を行った。日清戦争で戦死した者の家族に対しては、小学校授業料免除の勅令が出された。
 明治28年、衆議院では、次のような建議がされた。
 
  (前略)
  按(アン)スルニ我カ国ノ普通教育尚ホ未タ大ニ振ハス現ニ学齢児童ノ強半ハ未就学ニ属ス是レ豈(ア)ニ等閑視スヘキノ情況ナラムヤ而シテ征清ノ事起ルニ以テ国民奮テ軍費ヲ供給シ其ノ子弟軍ニ従フテ備(ツブ)サニ辛苦ヲ嘗(ナ)メ君国ノ為ニ屍(カバネ)ヲ陣頭ニ曝(サラ)セルモ亦尠(マタスクナ)カラズ償金ノ一部ヲ市町村ニ賦奨シ以テ記念トナシ以テ国民ノ忠義ヲ表彰ス理ニ於テ最モ当レルヲ覚ユ
 
 2億テールの賠償金をもとに、明治32年、「教育基金特別会計法」を定め、普通教育振興を進めた。
 
関連資料:【文書】教職員 教員召集の届出