ロシアに対して宣戦布告した明治37年の2月10日、文部省は、戦争下における教育について訓令を出した。それは
教育に従事する者は、戦争下といえども、平生の沈着なる態度を変えることなく、その職務を遂行すること、生徒をして、一勝一敗の報に接して常度を失することがないようにすること、生徒が課業をなげすてて、軍人の送迎をすることがないようにすること、生徒が父兄に強要して、献金をするようなことをしてはいけないこと
などを指示したもので、学校教育が戦争の渦に巻込まれないようにとの配慮であった。文部大臣は、学校生徒の提灯(ちょうちん)行列を禁止したい旨の発言をもしたという。
同年7月、天皇は「軍国多事の際といえども教育は奨励すべき」旨の御沙汰を文相に下付せられた。
このような状況のもとで学校教育は行われていたが、戦争に対する一般の人々の熱狂は、学校生活に影響を与えずにはおかなかった。特に兵営の集中していた赤坂区、麻布区は、戦時色にぬりつぶされ、あわただしい雰囲気に包まれていた。
明治三七年
三月九日 放課後歩兵第三聯(れん)隊召集の兵士武装の為め運動場を使用し午後五時半終了退散せり。本日より屡々此(しばしばこれ)を行ふ。
九月十五日 東京府教育会発企になる出征皇軍慰問帳卅冊調整し、発送せり。
十月四日 本校々長午後一時より負傷兵慰問の為め渋谷分院に出張す。
十月七日 本校々長負傷兵慰問の為職員児童を代表して東京陸軍予備病院の各分院に赴き傷病兵を慰問し、児童の製作にかかる慰問帖を寄贈す。
十一月廿六日 第二回出征軍人慰問帳を調製発送せり。
明治卅八年
一月十八日 小沢校長正午より負傷兵慰問の為慰問帳廿五冊を持ち広尾分院に赴けり。
同 廿五日 北白川宮恒久王殿下御凱旋(がいせん)に付歓迎の為新橋停車場へ小沢校長赴けり。(『麻布小学校沿革誌』)
児童は戦場の兵士にあてて、慰問文を送った。
学校では「忠君愛国」をすすめる授業が行われ、教室には、戦勝を祝う熱気がうずまいていた。戦勝の狂乱は、冷静であるべき学校教育まで巻きこんでいったのである。
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