学校新設、施設改善の努力

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 明治23年学齢児の就学義務が定められ、就学率は徐々に向上する一方、受け入れのための学校施設は、容易に整えることができなかった。
 
  さて公立の小学校と言えば、今申したように大へん威張ったものでありましたが、学校の建物など当時とは話にならない程至って粗末なものでありました。即ちあの頃の我が桜川小学校は、木下侯の御塾育幼社の後身であったので、校舎もその殿様の御殿をそのまま使用し、採光通風などと言うことは全然なっていませんでした。そこで屋根に硝子窓を明けて僅かに光線を引入れると言う有様で誠に不便極まるものでありました。そして教室が足りなくなると、次々に在来建物にくっ付けて建て増すという風で、まるで教室だか物置だかわけの分らないような変てこなものでありました。それでもあの頃は公立の学校だと言って、大変に威張って居たのですから、今から考えるとてんでお話になりません。[注釈12](『桜川小学校百周年記念誌』)
 
 右の談話は、明治24年入学した人のものであるが、公立学校の多くは、似たような状況におかれていた[図20]。すでに政府からの補助金は打ち切られ、月謝と寄附金とに頼らねばならない公立小学校であった。不足する学校数補充のため、明治23年の「小学校令」で、私立小学校を代用することが認められた。東京府は、翌24年にこれを採用、芝・麻布・赤坂の3区も、それぞれ私立小学校を代用していった。
 このような状況で学齢児の収容が行われたため、明治23年5月の赤坂小学校中之町分校開設以後、同35年3月に愛宕小学校が府の指定校として開設されるまでの約12年間、港区地域での公立小学校開設はなかったのである[図21][図22][図23][注釈13][注釈14]。
 

[図20]桜川小学校・明治31年

 

[図21]明治23年(1890)以降の開設校

 

[図22]東京市直轄学校

 

[図23]明治後期の公立小学校の分布(東京都公文書館所蔵)

 明治31年の東京府に対する「文部大臣訓令」によって東京府では、既有の学校数と就学児数とから不足する学校数を算出し、各区にその設置を指定した。港区地域では、芝区8校、麻布区3校、赤坂区2校の指定であった[図24]。
 明治41年の尋常高等小学校開設は、同40年の「小学校令」改正にともない発せられた「市立高等小学校は各区に一校又は二校を設置するものとする。ただし、当分の内尋常小学校の校地校舎を借用することを得」という「市訓令」に基づくものであった。
 増改築をくり返してきた既設の学校も、明治24年に公布された「小学校設備準則」に基づいた施設の改善に努めていた[図25]。しかし、いずれの場合もこれにかかる多額の費用は、地域の人々の寄附に頼らざるを得ず、区学務委員始め地域の有力者たちの協力を得て初めて可能となるものであった。
 

[図24]学校増設指定理由書・明治32年(東京都公文書館所蔵)

 

[図25]新築される校舎

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