公立学校の不足を補うため、市内の私立学校を代用とすることとしたのは、明治23年(1890)の「小学校令」においてであった。補助金を受けないことが代用認可の条件であったにもかかわらず、私立小学校の大部分は代用校になることを強く希望し、指定されることを誇りとした。
代用として認可された私立小学校は、明治26年9月14日東京府の訓令によって、門標に「東京市何区代用何尋常(じんじょう)小学校」「何郡何町村代用何尋常小学校」のような表示が義務づけられた。
明治27年中に代用私立小学校として認可された学校数は、芝区の19校、麻布区の9校、赤坂区の6校であった。
認可に当たっては事前調査があり「設備を一層整える、准教員を正教員に改める」など条件をつけられたり「教員タルモノ着流シニテ教授スルハ宣シカラサルニ付」などと注意を与えられたりした。
このようにして代用小学校と認められた学校であったが、入学する児童は商工業者の子弟が多く、また形式だけつけておけばよいという一般の考え方もあった。代用小学校の多くは、設立者が主として児童の教育に当たり、校舎の一部はその住居を兼ねていた。
代用私立小学校授業料規則
第一条 代用私立小学校ノ授業料ハ一人一箇月金三十銭以上金七十銭以下トス但土地ノ情況ニ依リ本条ノ金額ヲ納付スルコト能ハサル場合ニ於テハ学校設立者ハ一人一箇月金五銭マテ減額ヲ承諾スヘシ
第二条 一家ノ児童同時ニ数名就学スルトキハ学校設立者ハ前条ニ拘ハラス便宜減額ヲ承諾スヘシ
第三条 授業料ニ代フルニ物品若クハ労力ヲ以テセンコトヲ希望スル者アルトキハ学校設立者ハ之ヲ承諾スヘシ
第四条 前条々ノ規程ニ拠り難キモノアル場合ニ於テハ学校設立者ハ当庁ノ指揮ヲ受クヘシ
明治25年に東京府令として公布された右の「授業料規則」は、公立の場合と変わりはなかった。教育勅語の下附を受け、公立学校へ下賜(かし)された御真影を複写し、祝祭日には奉読、最敬礼をしなければならなかった。そして、廃校の際には、それを東京府へ返納することになっていた。
初めの代用期間4年の後、継続認可を受けながら存続していった代用私立小学校も、公立小学校の整備にともなって児童数が減少し、廃校となっていくのである。