麻布区を例にとると、明治23年の学齢児童数6700人に対し、公立小学校は麻布小学校、南山小学校、飯倉(いいぐら)小学校の3校だけであった。東京府における明治28年から30年までの3年間の学齢児童数は、平均8万5000余人、公立尋常小学校数は、本校分校合わせて78校、受入児童数3万余人という状態であった[注釈1]。
そこで、府知事は10年間に90校の増設を市に諮問した[注釈2]。90校という数は、過去3カ年における各区の学齢児童平均数の45パーセントから、現在公立小学校に受け入れるべき児童数を除き、残りの児童について1校600人定員として算出したものだという。この算出によって、港区地域では芝区に8校、麻布区に3校、赤坂区に2校の増設指定がなされた。ただし、これも就学率45パーセントを想定しての指定校数であった。
指定はしても、市として90校を急に増設する財政的なゆとりはなかった。一方、それまで学校数の不足分を支えてきた私立小学校設立者の間には、経営が圧迫されるとして反対の声もあがった。
市としては、小学校全建築に対し22年度以降[注釈3]、建築費予算総額の3分の1を交付して毎年5万円を支出、25年度より3分の2に改めて9万円を支出した。更に38年には、40年まで50万円を、40年末には45年まで毎年30万円を支出することを決めた。
これによって芝区では、愛宕小(35年3月)西桜小(40年11月)台町小(41年4月)三光(さんこう)小(42年4月)[図2][注釈4]聖坂小(44年4月)の各小学校が開設された。また、南桜小学校(24年4月)は、明治10年に桜田女子小学校として創設されたが、校長は桜田小学校長の兼任であって、女子児童と女性教員のみの学校であったのを、府令により男女児童を収容することとし改称したものである。また、東京市直轄校として芝浦小学校(現竹芝小学校)[注釈5]が40年5月に開設された[注釈6]。
[図2]三光小学校創立当時・明治42年(『三光小学校記念誌』)
麻布区にあっては、明治35年4月に三河台小学校、本村小学校の2校、同40年1月には筓(こうがい)小学校が創設された。これで麻布区としては府指定3校の増設は完了したことになるが、就学児童の増加は更に2校の増設を必要とする状況にあった。そこで、区としてまず1校の設置を計画し、同40年、府知事より1校設置の指定を受け、設置維持の費用負担について諮問があった。これによって、同42年3月麻中小学校が創設され、さらに、同42年6月麻布台南(たいなん)小学校をも創設した。
赤坂区では、明治39年9月に青南小学校、同41年5月に代用小学校であった私立氷川小学校を公立に改めることにより、府指定2校の増設を完了した[注釈7]。公立となった氷川小学校は、翌41年4月、同じく代用小学校であった私立溜池小学校を合併した。
このように、人口増加による学齢児の自然増や社会増と、就学義務化による就学児の増加に伴い、明治30年以後大正初年に至る、港区地域第二の学校新設期を迎えた。しかし、府指定による新設校は、就学率を45パーセントとして算出したものであったので、就学児の増加に到底対応できる数ではなかった。その不足を補い、教育の普及の一役を担って、代用私立小学校が存続するのであるが、公立学校も増加する就学児に対応すべく、順次校舎増築や改築を行い、規模を拡大していったのである。
関連資料:【文書】教育行政 芝浦尋常小学校建築
関連資料:【文書】教育行政 台町尋常小学校建築
関連資料:【文書】教育行政 三光尋常小学校建築
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 港区地域の人口
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 区内世帯数と一世帯当たり人員
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第3章第1節(1) 尋常小学校の児童数