相つぐ校舎の増改築

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 教育への関心が高まるにつれて、学校の施設の老朽化、狭隘(きょうあい)さ、粗末さが問題となるようになり、また授業内容の充実に伴い不便も生じてきた。各小学校は応急の措置として、教室の増築や建物の一部改築、あるいは全面新築を行い、校舎設備の充実を図った。
 
 前述の中之町小学校開設の発端となった赤坂小学校改築の例をとってみよう。
 赤坂小学校の前身は、区内有志の企画によるものであって、元自身番屋敷内の習学所であった。氷川神社の元神官、斎藤実頴が、読み書き算術を教えていた。「学制」公布により、工費1000円の予算で、旧幕臣の土地に校地500坪8勺(しゃく)、瓦葺(かわらぶ)き平屋洋造の校舎55坪を設け、児童数75名に教員4名の学校であった。明治8年、有志の寄附金により校舎平家61坪9合5勺の増築、同12年、再び有志の寄附金により校舎瓦葺き2階建21坪、平家建16坪7合5勺の増築、翌13年、校地拡張のため田地購入、そして、明治22年12月、洋館2階建校舎新築に至るのである[図3]。
 

[図3]赤坂小学校改築・明治22年12月

 この例にみられるような度重なる増改築、校地拡張のようすは、港区地域の他の公立学校にも数多く見られるものである[注釈8]。このような現象の背後にある児童数の増加の状況を、芝小学校の沿革誌によってみると、[図4]のようになる。
 

[図4]芝小学校の児童数の増加

 芝小学校ではその後も児童数が漸増し、同21年12月には500名を越す児童を収容することとなった。その後、改正道路計画のため移転をすることとなり、新築図案を調製し、校舎を売却して新築費用の一部とすることにした。府知事の認可を得て工事に着手しようとした時、同じ芝区内の南海小学校が火災のため焼失し、その再建の急務が生じたため計画は中断された。止むを得ない事態となったため既に払い下げた旧校舎を買い戻し、仮校舎とすることとしたが、児童の父兄の中には衛生上の理由で退校を申し出る者が多かったと記録されている。
 同じ芝区の御田(みた)小学校[図5]は、戸長等有志の寄附金により、薬王寺内の一部を借用して児童教育所とし、開蒙社(かいもうしゃ)と称したのが初めであった。明治10年華頂宮家より借地し、校舎を新築し移転した。同20年便所の増築、同24年第3教室拡張、同27年校舎増築、同30年に校舎改築をしている。そのころの事情について同校の沿革誌には次のように記されている。
 

[図5]御田小学校改築校舎図・明治31年(東京都公文書館所蔵)

 
     明治三十一年
  時世ノ進歩ハ学校ノ事業ニ幾多ノ改良ヲ促シ、殊ニ学校衛生ノ発達ハ著シク、現校舎ノ不完全ヲ告ゲ、加フルニ数年来生徒ノ数ハ次第ニ増加シ、各教室トモ幾多新入生ノ餘地ヲ存セザルニ至レリ、時ナル哉、本校借用ノ敷地ハ明年、即チ明治三十年三月ヲ以テ満期トナラントスルガタメニ、是年六月、華頂宮家ヨリ満期返地ヲ命ゼラレタリ
    (中略)
  時恰(アタカモ)、明治二七・八年戦役ノ後ヲ承ケテ物価非常ニ騰貴シ、之ヲ戦役ノ前ニ比セハ正ニ二倍ニ達セリ、加フルニ区内ニ於ケル他ノ芝、鞆絵、桜川三校ノ改築アリ、芝、鞆絵ノ二校ハ終ニ竢(シュン)工シ、桜川ハ正ニ工事ノ年ニ在リ、今亦(マタ)、将(マサ)ニ本校ヲ改築センニハ、本区ノ負担実ニ容易ナラザルモノアリ、区会ノ通過実ニ気遣ハシキ次第トス、然レドモ区長川崎実氏ニ断然決スル所アリ、是月、之ヲ学務委員会ニ提出セリ
 
 明治6年児童数190名、教員数3名で発足した御田小学校は、この改築を決意した明治29年には児童数533名、教員数13名にもなっていた。
 明治31年桜川小学校に先だって竣成したこの新校舎落成式に当たって、芝区の区長は、「構造堅牢ニシテ毫(ゴウ)モ外観ヲ錺(カザ)ラズ。通風採光其宜(ソノギ)ニ適シ、各室ノ配置能ク見序ヲ整フ、誠ニ完美ト言フベキナリ」と述べ、沿革誌には「土足昇堂ヲ禁ズ」と記している。都公文書館保存の芝区御田小学校新築仕様書に依れば、「正面二階建家根方形造桁行(ヤネホウギョウヅクリケタユキ)二拾八間、洋風小屋組瓦葺真壁塗」生徒昇降口引分戸は「四方小穴入組立硝子板切入トタン鋲(ビョウ)ニテ四方留方致シパテ塗シ建合スヘシ」と記されている。この仕様書に細かい記載があり、当時の本格的校舎建築の様子を知ることができる。
 

[図6]麻布小学校の改築校舎・明治35年

 麻布区の麻布小学校[図6]は、明治8年に市兵衛町で開学したが、当初は在来の2階屋を修繕して校舎とし、これに寄附金によって洋風校舎を別に増築して、児童数100余名、教員数3名で発足した。その後、児童の通学上の危険を考慮し、明治15年東鳥居坂町に新校舎を建て、移転した。この時児童定員300名、教員数9名に急増している。洋式1棟及び裁縫室はもとのものを移築、更に平屋1棟を新設したほか、住人の居住宅を修繕し事務所等に使用した。同18年には3教室増設、同21年児童増加のためその3教室を取りこわして2階屋とし、上下合わせて8教室の増築、更に事務室等も改築し、上下合わせて4教室を加えた。同28年に南山小学校が開校したが、麻布小学校の児童数は増加を続け、運動場も狭くなり、土地購入をした。麻布小学校の改築前、明治31年末の「学事年報取調」によると、「麻布小児童数八八三名、教員数一九名、飯倉小児童数六二九名、教員数一六名」となっている。
 明治34年7月から麻布小学校は改築に取りかかり、翌35年4月改築校舎落成、教室数16、旧に倍し、面目一新の観を呈し、当時本市小学校中有数の校舎と称せられ、麻布区における白眉(はくび)であると記録されている。
 この時期、同じような校舎新築・改築を行ったのは、明治23年、類焼から復興の南海小学校、同26年飯倉小学校、白金小学校、同27年南山小学校、同30年芝小学校、明治35年南海小学校、麻布小学校、同40年西桜小学校、同44年青山小学校、中之町小学校である。
 このような相つぐ増改築や新築は、就学児の増加と、教育内容、教育環境の充実に対応するためでもあったが、教育に対する一般市民の関心の高まりによるものともいえる。
 東京府指定の小学校設立や、東京市直轄の小学校の設置も行われ本区における初等教育の基盤もいよいよ固まったのである。
 
関連資料:【文書】教育行政 麻布・飯倉尋常高等小学校改新築
関連資料:【文書】教育行政 御田尋常小学校移転・新築
関連資料:【文書】教育行政 西桜尋常小学校建築
関連資料:【文書】教育行政 中之町尋常小学校増築
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 区立小学校増改築等の状況
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第3章第1節(1) 尋常小学校の児童数
関連資料:【くらしと教育編】第5章第1節 (1)明治期