[図7]芝区代用小学校認可稟申(ひんしん)書・明治29年(東京都公文書館所蔵)
[図8]代用小学校に関する内訓(東京都公文書館所蔵)
すでに述べたように、明治24年(1891)3月10日、文部省令第1号の私立小学校代用に関する規則により、東京府は同年10月1日より代用制を実施することとし、これによって学校不足を一時的に救うことになった。
芝区では、私立の共栄、聖阪、小南、和田、北川、松野、成立、丸橋、里見、南風、飯田、黒沢、小野、穂高、浜田、荒川、龍和、鳳生、貞操の19校が代用小学校として認可を得た。また、鳥羽小学校のように、遅れて認可を得る学校もあった。
麻布区においては、明治27年ごろ学齢児6700人に対し、公立小学校は麻布、南山、飯倉(いいぐら)の3校にすぎなかった。そこで、区学務委員会は区内私立小学校13校を対象にその設備内容を調査して、甲(教場、器械その他設備整うものと認む)、乙(設備ほぼ整うものと認む)、丙(設備不十分)に分類した。この中には、生活困窮者子弟のためのものや、高等小学校、女子の学校があり、また、代用校となるのを承諾しない校主もあって、結局9校を代用小学校に指定することとなった。指定された代用小学校は[図9][図10]のとおりである[注釈9]。
[図9]麻布区代用私立小学校表・明治27年2月現在
[図10]赤坂区代用小学校入学児童定員
赤坂区においても、公立小学校の不足は他区と同じであった。同区における公立小学校は、赤坂小学校及び同校中之町分校、青山小学校のみであった。私立小学校を代用する必要は、明治26年に至ってますます大きくなり、同年9月、区会によって実施の決議がされた。そして、私立氷川小学校を始め6校を代用することを決議し、それぞれの設立者と協議の上、同27年2月府知事の認可を受けた。
代用指定を受けたとはいっても、多くは個人経営の小規模な学校であった。校主が教師を兼ね、月謝も公立小学校に比較して安く、教育施設も教育内容も貧弱であった。公立小学校が男女は教室を異にしているのに対し、代用小学校ではそれもなく、学齢もきちんとはしていなかった。児童数の多い公立小学校は規則ができていて、服装についてもきまりがあった。就学の義務を負わされた保護者、後見人の側から見れば公立小学校より代用私立小学校の方が、はるかに負担は軽かったのである。
その頃(注、明治三〇年ごろ)病弱な私は、金杉橋から桜川小学校までは通われまいと言われ、金杉橋の南側(新堀町)にあった龍和小学校に入学させてもらいました。もっとも、金杉、西応寺辺りの寺が、寺子屋的な小学校になっていたのだが、とにかく粗末な二階建ではあるが、学校らしい。で、束脩(そくしゅう)、つまり入学金の代りに木炭壱俵を持って入学したのである。一年生はまだ鉛筆など使わせてもらえません。石盤に細い蝋石(ろうせき)です。それで書き取りや、算数をやるのだが、一々書いたり消したりするのが、硬くてつらい思いをしましたネ。二年生になると、貯金ホールと山田文具店の中間あたりにあった共栄小学校に入学。浜松町三丁目に、これまた、寺子屋的な小南小学校もありました。狭いながらも運動場があり、教室の出入りに女の先生が(明治のことです。和服で紫の袴(はかま)を付けた)オルガンをブカブカ弾いて下さったのがなつかしい思い出である。
いよいよ三年生になる。私を溺(でき)愛した祖父(彰義隊生き残りの旧幕臣)が区立((ママ))の本格的な小学校に入るんだと大よろこび。ハリキッテ靴も履かしたいと。しかし残念ながら、当時、靴やさんなんて、そんじょそこらにありません。桜田本郷町の角に桜組という海軍御用の靴屋が唯一の靴やさんだった。そこで態々(わざわざ)靴を誂(あつら)えるといったハリキリ。(『桜川小学校記念誌』)
このような代用私立小学校も、教育勅語の下賜(かし)を受け、願い出て御真影の複写をし、奉読、拝礼を行ったのである[図11]。
[図11]代用小学校御真影奉写願・明治27年(東京都公文書館所蔵)
関連資料:【文書】小学校教育 私立代用小学校