[図18]麻布区麻布・南山・飯倉小学校授業料等級表・明治25年
[図19]明治31年末公立小学校生徒授業料月額並不徴収及免除表
就学について、明治23年(1890)の「小学校令」では
児童満六歳ヨリ満十四歳ニ至ル八年ヲ以テ学齢トス。学齢児童ヲ保護スヘキ者ハ其学齢児童ヲシテ、尋常小学校ノ教科ヲ卒ラサル間ハ就学セシムルノ義務アルモノトス(同第20条)
としたが、一方
貧窮ノ為又ハ児童ノ疾病ノ為其他已ムヲ得サル事故ノ為学齢児童ヲ就学セシムルコト能ハサルトキハ学齢児童ヲ保護スヘキ者ハ猶予又ハ免除ヲ市町村長ニ申立ツヘシ(同第21条)
とされ、心身上の理由だけでなく貧窮のための就学猶予、免除もみとめられていた。
明治33年の「小学校令」改正においては、尋常(じんじょう)小学校が4年に統一され、
学齢児童保護者ハ就学ノ始期ヨリ其ノ終期ニ至ル迄学齢児童ヲ就学セシムルノ義務ヲ負フ(同第32条)
と、義務教育の強化が明示された。
就学義務の猶予・免除は、家庭の経済を助けたかも知れないが児童は学校で教育を受ける機会を失い、社会の進展に取り残されていくことになるという、重大な問題を含んでいた。
教育を受けさせたいという願いと経済的な負担の合間にあって、授業料の負担は、就学率の向上を阻(はば)む要因となっていたと考えられる。「就学セシムル義務アルモノトス」から明治33年の「義務ヲ負フ」に変わっても、授業料が撤廃されるまで、就学率の伸びは低かったのである。
明治23年の「小学校令」を受けて東京府では府令第26号をもって[注釈17]、尋常科授業料1カ月金30銭以上70銭以下、高等科授業料50銭以上1円とし、ただし、土地の状況により学校管理者において尋常科は10銭、高等科は30銭まで減額できることを規定した。当時の物価は、東京では、標準価格白米10キログラム当たりの小売価格が48銭であった。減額措置はあっても経済的には大変な出費となる。公立小学校に通える児童は比較的裕福な家庭の子弟に限られる傾向があった。
この年、教育費国庫補助実現の政治運動が始まり、教育費負担軽減への動きもようやく活発になってきた。なお同年、飯倉(いいぐら)小学校では授業料値上げをし、高等科で外国語授業を開始している。
明治30年、「小学校令」の改正があり、市町村立小学校授業料を1カ月30銭以内とすることとした。この時期は物価が上昇しており、東京では、白米10キログラムの価格は1円12銭、大工手間賃、平均66銭という相場であった。
明治32年、「小学校教育費国庫補助法」が定められた。その第2条は、「補助金は市町村の学齢児童数及び就学児数に比例して之を配付す」と規定した。
翌明治33年義務教育4年制が確立し、同時に、初めて市町村立尋常小学校においては授業料を徴収しないことになった。
義務教育の無月謝主義が実現されたことにより就学率の向上という躍進がみられるのである。しかし、実際には直ちに完全な無月謝とはならなかった。たとえば『桜川小学校沿革誌』には、明治43年4月「授業料二〇銭均一となる」とあるほか三河台小学校卒業生の話として次のような談話が残されている。
四年生の時、学制が変わり、六年生((ママ))の尋常小学校となりました。父母の中には、あと二年も小学校に通わせるのかと嘆いた人もありました。というのは、当時の三河台小学校の多くは、商人、職人の子弟が多かったので、早く小僧に出したかったのでしょう。又、月謝が二十銭もしていたので、親の経済的な負担も大変だったと思います。従って、当時、中学校に進学したのは、町内で、二、三人位のものだったのです。(『記念誌麻布台』)
関連資料:【文書】教育行政 小学校授業料
関連資料:【文書】小学校教育 桜川小学校経費の推移
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 教育費の変遷 一般会計決算総額と教育費決算額 (通年)(明治期)(昭和22~38年度)(昭和39年度以降)
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 一般会計決算総額と教育費決算額の割合 (通年)(明治期)(昭和22~38年度)(昭和39年度以降)
関連資料:【くらしと教育編】第3章第1節(2) 行政の就学普及施策