すでに述べたように、義務教育が普及する中で港区地域にでも生計上の理由から就学できない児童が数多くあった。これらの児童の中には家計を助けるために昼間は働いていた児童もいたのである。そのため、何とか勉学の機会を与えようとしたのが夜学校の開設である。
日清戦争後の物価の騰貴(とうき)は激しく、明治30年代に入り経済状況が悪化し、一方近代産業の発展と共に労働者問題も大きな社会問題となってきた。そして、生活に困るため未就学のままとなっている児童の教育に夜学校の必要が説かれるのであるが、この先駆となったのは、民間人であった。港区地域の3区ごとにその間の事情をみよう。
■麻布区
明治12年、飯倉小学校内に設置された庶民夜学校は、同16年ころ閉校し、その後、有志の者に依って再び夜学校が設けられ、深仁学校と称した。校舎校具は飯倉小学校より借用し、経費は区内有志の「醵金(きょきん)」をもってまかなった。昼間通学できない児童を無月謝で収容し教育したが、同24年4月に廃止となった。その後、同36年に至り、三度、麻生武平ら有志の尽力によって夜学校を開設、校名を第二庶民夜学校とした。第二としたのは、この時すでに私立麻布夜学校があったからである。明治40年麻生武平は死去したが、経営は引継がれ、同45年4月、市の経営に移して東京市立麻布第一夜学校と改称した。学級数2、教員数4名、児童数68名であった。
麻布小学校内には、明治14年8月より翌年3月まで東京府の設立した実業補習を目的とした庶民夜学校があった。
明治34年、麻布区教育会において夜学校を設立し、昼間働く者を教育しようという意見が起こったが、実施に至らなかった。そこで、同会の幹部で主唱者であった本山漸は、独力で経営することを決意し、認可を受けて夜学校を設け、私立庶民夜学校と称した。教室は麻布小学校の2教室を借用し、同校々長の援助も得て、同校訓導(くんどう)を教員に嘱託し、同35年3月開校した。当時麻布小学校は改築中であったので三河台小学校内に置き、後、新築の本校舎に移転した。当初、生徒数は21名であった。昼間は家事、手伝、給仕、店員及見習又は工員などの業務に従事する者が多く、年齢は9歳より20歳位までが最も多かったという。同37年以後毎年卒業生を出して設立の目的を達することができた。
同41年より義務教育年限延長にともない、之に準じて規則を改正し、課程を改め、在籍生徒数74名を数えたので学級編制をし、教員1名を増員した。翌42年には、内務大臣より事業資金100円を、同43年から44年まで、3回にわたり、助成金100円ずつが下附(かふ)された。
明治45年4月の在籍生徒数87名、教員数4名、開校以来の就学生徒総数750余名、卒業生徒数182名を数えた。この後、大正期にかけて、東京市立第二夜学校となっていった。
明治42年、東京市直営の台南(たいなん)小学校内に設置された「台南尋常小学校特殊夜学校」は、小学校が絶江(ぜっこう)と改称するのと共に絶江尋常小学校夜学校と称し、同45年には分離独立して、絶江夜学校となった。
■赤坂区
東京市立赤坂第一夜学校は、明治42年5月、青山尋常小学校内に併設され、生徒36名を収容して授業を開始した。修学年限は2年である。
東京市立赤坂第二夜学校は、明治34年8月、赤坂小学校の分教場を置き夜学部を設けたのが前身で、同44年、赤坂小学校に合併されて夜学部廃止、改めて同校内に夜学部が設立された。
両校とも校長は尋常小学校長の兼務であった。
■芝区
東京市立芝第一夜学校は、明治42年、南海尋常小学校内に附設された。
明治41年、東京市直営の芝浦小学校内に附設された「芝浦尋常小学校特殊夜学校」は、同45年絶江夜学校と同様、分離独立して芝浦夜学校と称した。
以上、これらの夜学校は、昼間就学することのできない児童や、学齢を過ぎてなお義務教育を修了しない者に、1、2カ年をもってその課程を修了させる目的があり、授業料は徴収せず、学用品を自弁することのできない者には給与、あるいは貸与して便宜を計った。また、入学期は4月、10月とされたが、随時入学も許した。
このような夜学校は、大正期に入り尋常夜学校として中等程度の教育施設として変化していくのだが、これまで見てきたように、市当局の施策のたち遅れを見すごせなかった有意の人々の働きが、その後の教育にも大きな影響力をもったのである。生活に困る家庭の子弟の教育に無月謝で奉仕した地域の人々の努力と相まって、夜学校の開設により就学の機会は拡大され、港区地域の3区の教育の向上に寄与することができたのである。
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