女子の教育

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 四民平等の思想と共に男女平等の思想の上にもたち、学問の機会均等をうたって展開された新教育であったが、旧時代からの家父長を絶対とする家族制度は簡単に崩れず、明治中期以後も一般庶民の女性の地位は低かった。忍従を婦徳(ふとく)とする立場から、女子の教育には消極的であった。
 外国系宗教関係者や一部先覚者達が、女子教育推進のため学校を設立し、さかんな活動を展開していたのに対し、公立学校ではあまりふるわず、一般に女子の就学率は男子のそれに比して低かったといわれる。しかし、港区地域の3区はいずれも男女の就学率に差はほとんどない。ちなみに、明治25年(1892)の統計を見ると[図21]のとおりである。
 

[図21]明治25年就学率

 明治23年の「小学校令」公布後、同24年、学級編制に関する規則について、文部省は次のように説明を加えている。
 
  女子ハ其性質風習ヨリ処世ノ業務ニ至ルマテ素(モト)ヨリ男子ト同シカラサレハ之ヲ教育スルノ法ニ於テモ亦男子ト殊別セサルベカラサルハ言ヲ俟(マ)タス故ニ尋常小学校第三学年以上ニ於テハ一学年ノ女児ノ数、高等小学校ニ於テハ全校ノ女児ノ数一学級ヲ組織スルニ足ル(尋常小学校ニ於テハ凡五十人以上、高等小学校ニ於テハ凡四十人以上)トキハ男女学級ヲ別ケテ教授スルコトトナセリ(後略)
 
 明治28年青山小学校は分校舎を移築し、女子のみ収容して女子部とした。
 
  明治三〇年一二月一七日 文部省訓令第一二号
 方今小学校教育ノ普及ト師範教育ノ拡張トヲ計画スルノ際小学校ニ於テ男児ト女児トハ務メテ学級ヲ別チ教室ヲ異ニ尚便宜学校ヲ異ニシ各其性質慣習ト生活ノ必要トニ応シ最モ適切ナル方法ヲ以テ之ヲ教育センコトヲ要ス此ノ如キハ当ニ男児教育ノ実相ヲ益発揮スルニ必要ナルノミナラス又女児ニ適切ナラシムルニ依リ自ラ女児就学ノ数ヲ増スコトヲ得ン(後略)
 
 進展を見せなかった女子教育も、日清戦争後しだいに盛んになり、上級進学者も増えはじめた。明治32年2月、従来の「高等女学校規程」を改め、初めて「高等女学校令」を発布した。「中学校令」の発布後13年めであった。
 明治初年の洋風一辺到は、20年代の半ばから台頭した伝統的な日本主義と共に消えて行き、30年前後には
 
  私の家などでも洋館が日本造りに変り、洋服を着ていた母が丸髷(まげ)を結い、私たちも洋服から紫の矢がすりの着物に稚児髷を結うといった変りよう。(平塚らいてう『私の歩いた道』)
 
といった風潮も現われた。女子教員、女子生徒の服装を見ると、それまでは洋服着用とか袴をつけるという姿は少数派で、普通は着流しで通学していた。『南山小学校沿革誌』に次のような記事がある。
 
  明治三二年四月
  女教員、女子の服装
  当時女子に着袴(ちゃっこ)せしむることは稍(やや)々異様の感なきにあらざりしが、如何(いか)にせん時運の推移は先ず教育当局者をして玆(ここ)に至らしむるを見る。
  明治三三年一月
  女教員に筒袖を着用せしむることを定む
  女児一般に筒袖の着用を奨励す。国民の衣食住改良に対する感念((ママ))幼褥(じょく)たるにより、其効果渉々(はかばか)しからざらんことを遺憾なり。
 
 また、麻布小学校[図22]では同じく同32年11月に、女性教師は袴をつけることとし、12月には女生徒にも着用させた。「従前ノ如ク華美ノモノヲ作ルヲ要セス可成(ナルベク)質素綿地ニテ作ルヘシ」と学校日記に記している。良妻賢母の教育は、同33年の教則第2条「女児ニ在リテハ特ニ貞叔ノ徳ヲ養ハンコトニ注意スヘシ」と示されたものが、こういった服装問題とも関連して広がっていった。
 

[図22]明治末の児童と教員・麻布小学校

 こうしたなかで、明治24年4月、それまで女子のみ収容し、女性教員のみの学校であった桜田女子小学校が、男女とも収容することとし、校名を南桜尋常(じんじょう)高等小学校とすることを上申している。同23年の「小学校令」改正後の就学児増加に対応するものであったようである。
 
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第4章第2節(1) 和洋折衷スタイル