[図23]裁縫科授業・明治末年麻布小学校(『麻布小学校アルバム』)
普通教育ノ必要ハ男女ニ於テ差別アルコトナク且女子ノ教育ハ将来家庭教育ニ至大ノ関係ヲ有スルモノナリ現在学齢児童百人中修学者ハ五十人強ニシテ其中女子ハ僅二十五人強ニ過キス今不就学女子ノ父兄ヲ勧誘シテ就学セシムルコトヲ怠ラサルヘキト同時ニ女子ノ為ニ其教科ヲ益々実用ニ近切ナラシメサルヘカラズ裁縫ハ女子ノ生活ニ於テ最モ必要ナルモノナリ故ニ地方ノ情況ニ依リ成ルヘク小学校ノ教科目ニ裁縫ヲ加フルヲ要ス
裁縫ノ教員正当ノ資格アル者ヲ得難キノ場合ニ於テ一時雇員ヲ以テ之ニ充ツルモ妨ナシト雖其人ノ性行ニ関シテ採用ノ際深ク注意ヲ加ヘンコトヲ要ス
この前年の『芝小学校沿革誌』の記事には、「学科改廃、尋常科に唱歌、裁縫を加え、図画を随意科とし、高等科に外国語を加える」と記されている。
この訓令によって裁縫科を加えることにより、女子の就学状況は向上したのである。
女先生の方では裁縫担任の永井先生は、鍋島家に20年も勤めたとのことで、旧大名の風習が身にしみてか、学校の往復は袴も着けず帯をきちんと結び冬はちりめんのおこそずきんで頭と顔を包み、静かに歩く姿は時代劇に出て来る徳川時代の武家の奥方の様でした。(『芝小学校記念誌』)
明治33年の「小学校令施行規則」には次のように示されている。
裁縫ハ通常ノ衣類ノ縫ヒ方及裁チ方等ニ習熟セシメ兼テ節約利用ノ習慣ヲ養フヲ以テ要旨トス(同第11条)
裁縫科は女子のみの科目で、内容は運針と日常の着衣を作る程度のものであった。裁縫科をはじめ、体育、唱歌、図画には専科教員を置いた。
明治の「学制」は男女の別学を建前として出発した教育だった。港区地域には桜川女学校、桜田女子小学校があったが、明治の後期にはすべての小学校が男女共学となった。座席を離したり、教室を別にしたりして別学の苦心は続いたが、教育内容はほとんど異ならず、明治12年の「教育令」以後、女子のための裁縫科の設置は同23年の「小学校令」に引継がれ、尋常小学校は選択、高等小学校は必置となり、同40年、尋常小学校6年の義務化に伴い女子の裁縫を必置とし、昭和16年(1941)の「国民学校令」に初等科の教科として受け継がれていったのである。
関連資料:【くらしと教育編】第4章第2節(1) 裁縫科授業と子ども服