翌23年、芝区の芝小学校[図24]は、すでに新築計画ができていた。芝小学校が新校舎建設用地として購人した土地について沿革誌は
[図24]芝小学校の改築工事・明治31年(『芝小学校記念誌』)
四国町弐番地ニ購(アガナ)フ現在ノ地是ナリ当時特ニ尽力セシ議員ハ山田忠兵衛田島安太郎手塚長八木村荘平ニテ木村荘平ヨリ弐千余円杉井勝太郎ヨリ一千余円ヲ寄附セリ
と記している。
明治21年4月に公布された「市制」「町村制」により同22年5月より芝区に編入された白金小学校は、同24年、現在の校舎では狭く不便であり、将来児童数の増加に伴い収容の余地がないことを建議した。区学務員9名は白金小学校を視察し、校舎の破損の甚しさを痛感し、敷地を白金台町1丁目33、34番地に選定し、翌25年5月より校舎新築に着工した。同年11月「校舎新築ノタメ、校具ノ新調費、金員、物品等を寄附セラレタキ懇願状ヲ児童父兄ニ発送」したのである。このとき集められた寄附金で校具を整備することができた。このような校舎新築に伴う地域の人々による金品の寄附は各学校でみられた。御田(みた)小学校の場合は総額830円の記録があり、南海小学校の新築予算の収入には、有志寄附金1724円余がふくまれている。
同年12月には、麻布区南山小学校の改築の儀が定まった。
十二月 旧校舎狭隘上旧廃シテ使用ニタエザル個処((ママ))ヲ生ジタルニヨリ玆(ココ)ニ改築ノ儀起リ麻布宮村町六十九番地字内田山ニ新築ノ工ヲ起ス因(チナ)ミニ新築学校敷地ト撰ミタル地ハ字ニシテ内田山ト称スル加ク一ノ高丘ニシテ当時ハ大半野原一部ハ畑地ノ有様ヲナシ人跡モトヨリ繁カラズ爾(シカ)レドモ其地位高燥ニシテ眺望ニ富ミ梢々市街ニ隔離シタル点ハ小学校ノ設置ニ最モ適シタル地区ト謂(イ)ハザルヲ得ズ比ノ地其撰ニ上リタル亦宜ナルカナ
この校地選定には、区学務委員等の尽力があった。校地1076坪、購人価格4500円、運動場坪数308坪、和洋折衷木造2階建校舎、建坪224坪、建築8394円であった。その経費の3分の1は地域で負担した。麻布区は、当時60パーセントの就学率を更に向上させるために努力していたのである。
桜川小学校では明治25年に校地内に住んでいた真島源七が、所有の建物(木造柿葺(こけらぶき)平家建坪7坪8合7勺(しゃく))及び建具類を全部寄附した。「総見積代金参拾円」であった。その翌年3月、
廉野勇之進外二百十三名ヨリ本校改築費トシテ惣(ソウ)計金六百三十有余円寄附ノ儀申出テタルヲ以テ当局者ニ其取計方ヲ副申セリ然レトモ区費ヲ以テ支弁スルニ至リタレハ其篤志ヲ謝シ之ヲ仰クニ及ハサリキ
とある。同年12月、区会で改築を決議、同28年起工し3教室を取壊したが、日清戦争のため物価急騰し、工事は中止されてしまう。工事再開は同30年11月であった。翌31年6月の改築工事落成に際し生徒父兄及び同窓会員から寄附金を募り、合計714円95銭(公文書)を区役所に納めた。この時の個人の寄附金最高額は、服部金太郎の100円であった(『桜川小学校沿革誌』)。
南海小学校が全焼してしまったため、工事延期となっていた芝小学校は、明治29年になって、ようやく工事に着手、同年11月に落成した。建築費は1万407円12銭5厘で
概略右之如クニシテ之ヲ去ル明治廿二年十二月公費八千円寄附参千円ヲ以テ購(アガナ)ヒタル学校地ノ費用ヲ合算スレハ金弐万壱千四百〇七円拾弐銭五厘之実ニ本区ニ小学校ヲ設立セラレシ以来弐万有余円ノ資ヲ投セラレシハ此校ヲ以テ嚆矢(コウシ)トス時世ノ進歩トハ言へ区民ノ教育ニ厚キ推テ知ルヘキナリ
と『芝小学校沿革誌』は記している。
麻布区の飯倉(いいぐら)小学校は、明治22年校舎新築を要請したが、「時期未タ到ラス」として、区会で否決されてしまった。
同二四年九月文部省普通学務局岡五郎氏来リ「飯倉学校建築図」ニ関シ取調ノ要件ヲ照会シ来ル之ヲ区役所へ転致シ区長ヨリ回答ス此際ヨリ己ニ其有志者ニ於テ本校ノ位置ヲ他ニ移セントスルノ希図アリ依テ其建築図業モ区長ニ説キ文部省へ調査ヲ請ハシムルニ至レルモノナリ(『飯倉小学校沿革誌』)
校地移転を望む学校や有志の熱心な意見があっても容易に実行してもらえなかった様子がうかがえる。
これ以後も校舎改築は次々と行われたが、いずれも校地の拡張、移転改築費用、改築に伴う新しい教具の整備など、地域の人々に負うことが多く、地域の人々も心を合わせて努力していた。公文書には賞与上申按も多く、「木戸孝正以下一六五名青山小建築費寄附」「久米民之助以下七九九褒(ホウ)状青山小寄附」などが見える。明治33年学校建設費の3分の1は市が補助金として支給することになったが、地域の人々の尽力が建設を促進していたのである。
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 区立小学校増改築等の状況
関連資料:【学校教育関連施設】