沿革誌記載以外にも数多くの寄附があったことは、公文書の賞与按の状況からもうかがうことができる。中でも異色なのは種痘(しゅとう)の寄附で、青山小学校・白金小学校にその記録があるほか、公文書として青山南町地主栗原清兵衛ほか23人(惣代秋元吉次郎)がその費用を寄附したことについて、市長より知事に行賞方を申請した文書がのこされている。寄附行為は、後に制限され、禁止されていくが、明治前期の公立学校の開設以来、一貫して、学校教育を応援する地域の人々の自然の行為として続けられていた。殊に、学校建設が急速に進められた明治30年から明治の末にかけて次第に活発となり、これに応ずる褒賞(ほうしょう)もさかんに行われた。住民の学校に対する関心と信頼にこたえて、地域との一体感をもって学校教育が営まれていたことがうかがえる。それは、学校の周年記念式や運動会、改築落成式等の諸行事の各学校の沿革誌の記事のなかにも如実(にょじつ)に現われている。
[図25]寄附に対する賞与上申書・明治35年(東京都公文書館所蔵)
[図26]寄附に対する賞与按・明治35年青山小学校(東京都公文書館所蔵)
[図27]南山小学校学校日誌(『南山小学校沿革誌』)