就学促進

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 施設の整備、教育への関心の高まり、授業料の改善など、さまざまな条件により就学率が急速に高くなる様子はすでに記したところであるが、取り残された生活の苦しい人々の子弟の教育の中に一般市民の教育普及に協力する姿が見られる。
 芝の愛隣学舎は、聖アンデレ教会の保護のもとにあった。聖アンデレ教会は、イギリス基督教会に属する福音伝播会(ふくいんでんぱかい)の伝導師が芝栄町に明治12年に建てたものであった。香蘭女学校はこの派の教育施設である。香蘭女学校教師内藤喜久麿は、新網北1番地に居住し、同33年私立愛隣学校教員認可の申請をしている。学科は小学校尋常(じんじょう)科程度、教師は1名、生徒数男39、女26、1カ月の授業料の総額72円、1カ年の経費総額は342円である。無月謝ではないことがわかる。
 
  愛隣学舎は尋常小学の組織に依り、学級を尋常高等に分かち、石盤、石筆及び読本を備へ、伝道を兼ねて親しく生徒を待てり。開校せしは今より五、六年前にして当時生徒男二十名女三十名あり。教員二人専ら管理しつゝあるは、内藤某なり。(横山源之助著『日本之下層社会』明治32年)
 
 数に食いちがいはあるが、その様子はうかがえよう。芝にはこのほかに正田匡という老人が、1日5厘で生徒を集めて教えている寺子屋同然の学習所があったという。
 福田会(ふくでんかい)育児院[図29]は、仏教の慈悲の精神にもとづき、広く生活の苦しい人々の子女を収容するため創設されたもので、日本橋区南茅場町智泉院から、本郷区竜岡町麟祥院内をへて、麻布区筓町長谷寺境内に移っていた。明治25年3月、府の認可を得て、院内尋常小学校が設けられた。内容について詳しいことはわからないが、同33年の補習科設置願により、無月謝であったことがわかる。その後、堀田坂附近へ移った。
 このほかにも、前述した麻布区の慈育小学校(後に市直営学校となる)などもあった。これらは、就学を義務づけながら無償でなかったこの時代に、主として宗教活動の中にあった篤志家たちが、みるにみかねて始めた教育施設であった。ここには人権尊重・人間平等の精神があらわれていたといえよう。
 

[図29]福田会育児尋常小学校補習科設置願・明治25年(東京都公文書館所蔵)