教育勅語趣旨徹底

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 明治19年(1886)の「小学校ノ学科及其程度」により、修身教育は教科書を用いず、談話形式によって行われた。同23年の改正令においても変わりはなかった。
 
  修身 小学校ニ於テハ内外古今人士ノ善良ノ言行ニ就キ児童ニ適切ニシテ且理会((ママ))シ易キ簡易ナル事柄ヲ談話シ日常ノ作法ヲ教へ教員自ラ言行ノ模範トナシ児童ヲシテ善ク之ニ習ハシムルヲ以テ専要トス
 
 談話の内容は個々の教師の考えによって異なったため、何を基本とするべきか議論となり、その基本方針について、地方長官に対し明確な結論を要求する者も出る状態であった。そのため、同23年、地方長官会議において徳育の根本方針を建議し、その結果、勅語の発布の形で解答がなされたのである[図1]。
 

[図1]徳教に関する裁可上申書(国立公文書館蔵)

 教育勅語は、小学校や師範(しはん)学校の教育に大きな影響を与えた。それは特に修身教育において顕著であった。同24年11月の「小学校教則大綱」において
 
  修身ハ教育ニ関スル勅語ノ趣旨ニ基キ児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方法ヲ授クルヲ以テ要旨トス
 
と定め、徳目として、孝悌(こうてい)、友愛、仁慈(じんじ)、信実、礼敬、義勇、恭倹(きょうけん)などをあげ、「尊王愛国ノ志気」の涵養(かんよう)を求めた。更に、訓令第5号において
 
  修身ニ於テ多数ノ教員ノ脳裏ニ一任シ教科書ヲ定メサルカ如キハ其当ヲ得サルモノトス
 
として、それまでの口授形式を改め、教科書の使用を発令した。
 ついで同年12月、「小学校修身教科書検定標準」を公布したので、それ以後、同25年より27年まで、検定教科書による修身科教授が行われることになった[図2]。また、歴史についても「本邦国体ノ大要」を授けて、「国民タルノ志操」を養うことを要旨とし、修身との関連を重視している。このようにして、教育勅語の趣旨の徹底を図るとともに、更に、教育勅語謄本を全国の小学校に頒布(はんぷ)したのである[図3]。
 

[図2]明治修身書・明治23年(文部省『目で見る教育のあゆみ』)


[図3]教育勅語謄本納箱

 『飯倉(いいぐら)小学校沿革誌』には
 
  明治二三年一二月、府庁より勅語謄本を配布せられ、次て両陛下の御真影を拝戴す
 
と記され、御田(みた)、鞆絵(ともえ)、桜川、南山の各小学校沿革誌にも同じように記されている。麻布小学校の日誌には、
 
  教育ニ関スル勅語ヲ掲ケ教員室ノ額トナス、勅語解一冊((ママ))求シ職員ヲメ(シテ)輪読((ママ))セシム
 
とある。
 この日誌にあるような教育勅語の解説書は井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』が明治24年9月刊行され、師範学校や中学校の修身教科書として使用されたのを始め、民間でも多数のものが出版された。教科の授業時数についても、修身はそれまで毎週1時間半であったものが、尋常(じんじょう)小学校では3時間、高等小学校では2時間といったように多くなり、修身教育を重視した。小学校の修身教科書は、教育勅語の趣旨に基づいて特に厳格な基準によって検定が行われた。そのため、その後の修身教科書は教育勅語に忠実に編集されたのである。
 教育勅語と、合わせ下賜(かし)された御真影に関しては、
 
  天皇陛下及皇后陛下ノ御影並教育ニ関スル勅語ノ謄本ヲ奉置スヘキ場所ヲ一定シ置クヲ要ス(第2条)
 
と、「小学校設備準則」では校舎についての第一に規定され、奉安すべき場所を確保するよう求めていた。これより後、各学校では奉安庫の設置をし、御真影及び勅語の遵守を何よりも優先するような形になっていった[図4]。
 また同じく24年、「小学校ニ於ケル祝日大祭日ノ儀式ニ関スル規程」の制定により、各祝祭日には教育勅語の奉読が行われ、その解説に基づく訓話がされた。そして、修身教育と相まって教育勅語を根幹とする徹底した忠君愛国の教育が押し進められていくようになったのである[図5]。
 

[図4]御真影奉掲所(氷川小学校所蔵)

 

[図5]三祝日と学校生活での敬礼・明治26年(東京都公文書館所蔵)

関連資料:【文書】教育行政 教科書の使用
関連資料:【くらしと教育編】第7章第1節 「新教育」以前の学校教育