明治二三年二月一一日
紀元節ヲ卜シ天皇皇后両陛下ノ御影、宮内省ヨリ下賜セラレ御影奉迎式ヲ芝公園地内共同運動地ニ於テ執行セラル桜田男女両校、桜川、鞆絵、芝、南海、御田ノ七校順次ニ排列シ生徒一同君が((ママ))代ヲ唱へ区長丸田正盛区議会議員檜山銕三郎ノ演説アリ御影拝受ノ後生徒ヲ退散セシム(『桜川小学校沿革誌』)
尋常小学校へ御真影の複写奉掲をも許可され、公立学校への整備を進めた。
聖上 皇后両陛下御真影ノ儀 市町村立高等小学校ヘハ従来下賜相成候処、尋常小学校ヘハ特別ノ御由緒有之モノノ外ハ即今下賜難相成儀ニ候得共、今般特別ヲ以テ、市町村立尋常小学校幼稚園ニ限リ、其校園等ノ費用ヲ以テ、近傍ノ学校へ下賜セラレタル御真影ヲ複写シ奉掲候儀ハ、被差許候間、右御領知有之度、尚右取締ノ方法并複写奉授ノ校園名等ハ、当省へ御開申有レ之度此段及二通達一候也
明治二五年五月二十一日
文部次官 辻 新次 印
明治24年6月、それまで学校によってまちまちであった祝祭日の学校儀式を統一する「小学校ニ於ケル祝日大祭日ノ儀式ニ関スル規程」が制定された。
麻布小学校では、明治21年11月3日の天長節(てんちょうせつ)式典は
聖影ヲ掲ゲ生徒参拝式ヲ挙ス、是日健康ノ生徒ヲ撰ミ南郊ニ遠足ス
とおおらかであるが、明治23年、教育勅語拝戴直後の天長節は、
明治二三年十一月三日
天長節朝七時半拝賀式場ヲ開キ尋常一二三年生ヲ入レ一同ニテ君が代三回尋(ツイ)テ校長祝詞朗読尋テ職員一同生徒一斉ニ拝揖(ハイシュウ)シ再ヒ天長節ノ祝歌ヲ唱テ了(オワ)リ更ニ尋常四年以上高等四年ニ至ル迄生徒一礼トシテ式ヲ挙ク方法前ノ如シ是日区村木学務委員藤本八十吉氏臨席ス式了リテ職員一同午饗ヲ喫シ帰ル
となり、更に儀式規程の出された後の明治25年の天長節は、
前九時本校職員生徒一同式場ニ参集、職員一同各自ニ御真影ヲ拝シ君が((ママ))代ヲ三唱シ、校長勅語ヲ奉読シ、生徒一同御真影ニ向ヒ一斉ニ拝セシメ、続テ国体ニ関スル簡短((ママ))ナル演説ヲナシ更ニ天長節ヲ祝スル唱歌ヲ高等科尋常科生徒ヲ別ケテ交(タガ(ママ))イニ合唱セシメ式了ル
(『麻布小学校沿革誌』)
となってくるのである。
このように、初めは遠足をしたり、会食をするといった楽しい日であったようだが、儀式規程の設定により、全国どこの学校でも同じような儀式が、紀元節(きげんせつ)、天長節、元始祭(げんしさい)、神嘗祭(かんなめさい)、新嘗祭(にいなめさい)の日に行われるようになったのである。
なお、式歌に関しては、明治24年[図6]のような文部省の通達が発せられた。
[図6]儀式用歌詞・楽譜の例示・明治24年(東京都公文書館所蔵)
[図7]大祭祝日の敬礼の内訓・明治26年(東京都公文書館所蔵)
式歌も定まり、儀式は一層重々しいものとなった[図7]。
明治40年11月3日の『筓(こうがい)小学校日誌』には次のように記されている。
一 午前十時より天長節儀式執行
一 校長誨告(かいこく)の要旨は左の如し
1 本日は陛下の第五十六回御誕生に当らせられる
2 御勅語に就きて……忠と孝
3 陛下の御聖徳につきて……皇太后陛下に孝行
4 諸子の学校の仕事につとむるは一には孝となり一には忠となる
5 予は暑休前に陛下の思召によりて……(略)
儀式中、児童は直立不動の姿勢を崩すことを許されず、勅語奉読の際は頭を垂れていなければならなかった。しかし、式後に配られる紅白の鳥(とり)の子(こ)餅、あるいは紅白の小さなまんじゅう、曲玉(まがたま)を型どった菓子などをもらうことを楽しみにして参列したのだった。
以後このような形式によって、儀式は昭和に至るまで続いたのである。
関連資料:【文書】教育行政 教育勅語謄本の下賜