思想の粛正(しゅくせい)

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 日露戦争後の好景気は、個人主義的な快楽主義をさかんにした。一方、社会不安が深刻化し、資本主義体制から発生する諸問題に対し、労働運動も活発になった。社会的な問題に対し関心を持つようになった学生も増えてきた。
 こうした日露戦争後の日本を「まったく世情騒然、国民のすべてが懐疑的虚無的方向に流れて」(蓮沼門三自伝『永遠の遍歴』)いくものと見るものも多く、青年の問題が論議を呼んだ。明治39年(1906)6月、文相牧野伸顕は、学生の思想風俗の取り締りに対する訓令を発した。
 青山にあった東京府立師範(しはん)学校では「或は名士の修養講演会を催し、或は陸軍士官学校の見学を企てるなど、思想の善導、生活改善」を計ったが、思うような効果はあがらなかったという[注釈1]。
 このような状況の中で、桂太郎内閣が、天皇の名において発したものが、戊申詔書であった。
 文相小松原英太郎は「職員一同聖意ヲ奉体シ躬行(キュウコウ)実践以テ子弟ヲ訓育シ克ク詔書ノ御趣旨ニ副ヒ奉ランコトヲ努ムベシ」との訓令を発した。