明治24年の「小学校教則大綱」制定、それに続く「教科用図書検定規則」改正、そして国定化へと、教育の国家統制が続き、教育内容、更に教育現場も画一化の傾向を強めていった。それでも、教育現場ではいろいろな形で特色のある教育が行われていた。
青山小学校では、赤坂区の連合運動会で兵式教練を演じた。
兵式体操は、明治21年ごろから次第に区内の学校に普及し始めていた。同28年には尋常(じんじょう)科3年以上の男子有志者に課外として撃剣の指導をした。青山小学校では赤坂警察署の関係者に指導を嘱託した。翌29年の日本体育会主催の靖国神社境内体育競技会に参加して兵式教練を演じ、感謝状を受けた。同校々医詫摩武彦と、体操専科教員が熱心に補助したとある。
時代を反映した教育実践であったが、日清戦争をはさんで盛んに行われたこの兵式訓練も30年を過ぎると記録から姿を消していった。
同32年、麻布小学校では通信簿を制定、児童に購求させた。現在の通知表とは異なり、家庭と学校の連絡簿であったようである。
明治39年以降新しい実践の試みが沿革誌に表われる。
従来ヨリアリシ運動場用掲示板ヲ麻布小学校教育新聞ト名ヅケ、校ノ内外ノ重ナル出来事ヲ記載シテ児童ノ智徳ヲ発達セシムル資料ニ供セリ
物価教育ニ関スル内規ヲ制定シ運動場ニ掲示板ヲ設ケ物品ノ相場及賃銭等ノ高低ヲ児童ニ知ラシム
本校児童ニ郵便物ノ認メ方及発受方ヲ実習セシムルタメ運動場へ児童郵便投入函ヲ設ケ郵便投入配達等ニ関スル内規ヲ制定セリ(『麻布小学校沿革誌』)
教授用電話器の設置や温度計の教室内設置を行った学校もあり、運動及び運動場の整備に力を入れる学校もあった。
当時法規に示すところの体操遊戯は勿(もち)論、特に日本固有の武術体操を創始して、男子には木剣、女子には薙刀(なぎなた)体操を課し、外に固有遊戯全書を著(あらわ)はして、屋外は申すまでもなく、室内遊戯をも奨励なさいました。明治四十三年十一月七日、写真を撮影して独逸(ドイツ)で翌年開かれる万国博覧会に出品致しました。明治四十五年三月には乃木大将閣下は小笠原子爵と共に来臨せられ、親しく此の武術体操を参観され一場の訓辞を戴きまして職員児童一同感激致しました。(『アサナカ』記念号)
当時本校の運動場には他校に稀なる諸種の運動器具なども備へ付けてあった。其の他本校独特の「利用設備」といふものもあった。校舎の周囲すべて児童の眼に着く所には必らず何物か置いてあって、その事物には一々名前が記され、説明も加へてあった。かうして自学の便を与へたのである。又校舎の外部にメートル尺を作り、距離間隔の測定目測歩測にも便を与へた。此の他日常の容器、木材、石片等を配置して其の容積、重量等を測るに便にしたから、休み時間中の運動場はそれ等を試用する児童で各方面とも賑(にぎや)かであった。(『アサナカ』記念号)
明治28年には、校長会制定の教授細目に従っていた麻布小学校が、同37年には校内の諸内規を整え、教授草案についても内規を制定した。教科指導に当たっては、5段階教授法もとり入れられていた。
学用品供給
児童ヲシテ浪費ヲ省キ適当ナル学用品ヲ使用セシメ一ハ教授管理上ノ利便ヲ計リ一ハ教育上ニ資センガ為メ学校ニテ学用品ヲ指定シ各児童ニ使用セシムルハ尠カラサル利益アルヲ認メ保護者会ニ謀リ保護者ヨリ其ノ材料ノ寄贈ヲ受ケ之ガ供給ノ方法ヲ講セリ
現今給与シツヽアル学用品次ノ如シ
一 長方用半紙ノ全部
二 太筆 細筆
三 手工用材料
四 成績考査用紙及材料
尚進ンデハ墨汁鉛筆雑記帳図画用紙等ニ及ボシ出来得ベクンバ硯石盤算盤等ノ共同用具ヲ整理シ児童ヲシテ校門ヲ入レバ教授ヲ受クルヲ得シムルニ至ランコトヲ切望スト雖(イエド)モ土地ノ状況ハ到底カゝル理想的方法ヲ満足セシムルコト能(アタ)ハサルヲ以テ単ニ以上数種類ニ限定スルノ止ムルヲ得サル現況ナリサレド本市ノ如キ入退学児童ノ頻繁ナル地域ニ在リテハ僅々数種ノ一定セル学用品モ其ノ効果ハ多大ニシテ教授上ノ便益ヨリ延イテ児童ノ成績ニ良好ナル結果ヲ生ズルコト甚ダ多シトナス(筓小学校『本校教育之梗概』)
明治43年の記録である。大正デモクラシーに続いていく自由な息吹きが、教育現場にも感じられるのである。
関連資料:【文書】教職員 笄小学校学校経営の研究