校舎の整備

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 明治24年(1891)、「小学校令」の改正に続き、「小学校設備準則」が公布された[注釈13]。この準則では、まず校地の設定について述べている。
 校舎の新築改築の必要にせまられた時であったため、各校は校地の選定に心をくだいた。南山小学校の場合は、校地について
 
  内田山ト称スル如ク高台ニシテ大半野原、一部ハ畑地ノ有様ヲナシ人跡モトヨリ繁カラズ、然レトモ地位高燥ニシテ眺望ニ富ミ梢々市街ニ隔離シタル点ハ最モ適シタル地区ト請ハサルヲ得ス
 
と校地選択の理由を記し、「狭隘(キョウアイ)且旧廃ニシテ使用ニタエサル個所ヲ生ジタル」旧校舎を廃し、明治27年この地に新築を行った。白金小学校、飯倉(いいぐら)小学校は同26年に校地を得て校舎新築、麻布区麻布小学校も大改築を行うなど、準則にそった校舎建築にとりかかった[図34][注釈14]。
 

[図34]麻布小学校改築届・明治25年(東京都公文書館所蔵)

 港区地域内の新築校舎は、和洋折衷(せっちゅう)の2階建が多かった。飯倉・麻布の2校は、文部省に係官の派遣を要請し、準則に従った進んだ新校舎を建設した。
 その他、便所は校舎外に男女別に設けること。そして、学校長又は首席教員の住居と菜園を校舎のそばに設けることを定めている。また、外壁、内壁、床、天井、屋根、階段、入口、高さ等、細かい名称を列挙しそれらについては地方の情況によって規定するようにと指示している。
 また、帽子、傘、雨衣などの置くべき場所についても指示している。これによって、各校とも詳細な設計・仕様書を作成し必要な校舎条件を整えていった。
 しかし、東京府の場合、多くの代用私立小学校に公立学校不足解消を肩代わりをさせていたが、補助金もないそれらの学校には施設の整備を進めるゆとりはなかった。
 明治32年7月、「設備準則」の改正があった。
 
  第一条 校地ハ学校ノ規模ニ適応セル面積ヲ有シ開豁(カイカツ)乾燥ニシテ衛生ニ適シ且児童ノ通学ニ便利ナル場所ヲ択(エラ)フヘシ
   校地ハ道徳上嫌忌(ケンキ)スヘキ場所喧閙(ケンドウ)ニシテ授業ニ妨アル場所及危険ナル場所ニ接近スヘカラス
 
 防災上の配慮があったからであろうが実際には児童数の増加、立地条件などの問題もあり、港区地域の新築校舎は競って2階建の「本市小学校中有数の校舎」を建造していった。
 明治33年の「小学校令」改正においては、「小学校ニ於テハ校舎、校地、校具及体操場ヲ備フヘシ」(同第29条)と規定して、「非常変災ノ場合ヲ除クノ外小学校ノ目的以外ニ之ヲ使用スルコトヲ得ス」(同第30条)と施設の使途を明確にした。校舎についての規定は、この時期をもってほぼ確立したといってよいであろう。
 
関連資料:【文書】教育行政 麻布・飯倉尋常高等小学校改新築
関連資料:【文書】教育行政 南山尋常高等小学校新築
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第5章第1節 (1)明治期