教室の整備

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 「設備準則」においては、校舎には講堂、物置を備えることや、裁縫、手工のための特別教室を備えること、また、体操場は校舎にそって設け、農業練習場は校舎より遠くあるべきことまで指示している。当時の学校施設、設備は、改善すべき事項が山積していたものと見ることができる。
 
  第十二条 生徒用ノ机及腰掛ノ構造ハ生徒ノ衛生上ニ害ナカラシメ及生徒ノ監視上等ニ便利ナラシムルヲ要ス
 
 準則は、教育の諸条件整備に向けて、更に細かい訓令となっていく。麻布小学校の沿革誌には、次のように記されている。
 
  明治廿六年十一月十九日
    本日より文部省令第六号訓令の上旨に遵(したが)ひ、生徒席順は一般に身長順に依る事とす。而して又教場提示の生徒名簿の順も之に依る。
 
 明治32年の「設備準則」改正では、教室の構造について次のように細かく示している。
 
  多級学校ノ教室ハ幅三間以上四間以下長四間以上五間以下単級学校ノ教室ハ幅及長四間以上五間以下ヲ常例トシ其大ハ生徒一人ニ付三尺平方ノ割合ヨリ小ナルヘカラス
  天井ハ牀(ユカ)面ヲ距ルコト九尺以上トス
  牀ノ高ハ二尺以上トシ牀下ノ四方ニ風抜ヲ設クヘシ
  採光窓ノ総面積ハ牀面積ノ六分ノ一以上トシ其下縁ノ位置ハ牀上凡二尺五寸ニ定メ其上縁ハ牀上八尺五寸以上ニシテ成ルヘク天井ニ接近セシムヘシ但採光窓ノ上部ハ欄間ヲ以テ之ニ代フルコトヲ得
  窓ハ生徒座席ノ前面ニ設クヘカラス(略)
  土地ノ情況ニ依リ成ルヘク煖房ノ装置ヲ為シ又ハ煖房器ヲ備フヘシ
  各教室ニハ通常二箇ノ出入ロヲ設クヘシ(同第6条)
 
 廊下についても「片廊下ヲ常例トシ其幅六尺以上ナルコト」(同第7条)としていた。しかし、実際、現場での対応は容易ではなかった。
 
  私が入学した当時の桜川は、裏庭には器械体操庫があり、私が一、二年の頃はこの田舎屋が教室で、ちょうど芝居の道具建てとそっくりでした。一年生の教室のまわりは廊下で、巾三、四尺くらいの広さで、手すりもなく、四方にはしご段が一ヶ所ずつあり、間口は三尺ぐらいでした。屋根はかやぶきで、雨がふると所々に雨もりがして、大弱りしました。(明治38年卒業生『桜川小学校記念誌』)
 
 このころ、桜川小学校では児童数が増加し、教室数が不足し、明治39年には同じ施設を1日2回に分けて使って授業する2部教授を行うことになっていた。このような状況は桜川小学校だけのことではなかった。準則ではその状況を配慮し、校舎建築に当たらない学校では「適用シ難キモノハ其時ヲ待テ之ニ依ルコト」[注釈15]としている。この時、児童用机、椅子も寸法を定められた[図35]。以後この基準は昭和に至るまで踏襲されることになる。麻布小学校では、明治33年より初めて一人用の机を製作させ、5カ年の継続費で全体の机を改良することとした。
 明治33年の改定では、教室内部の色調について初めて言及し「壁ハ灰色、淡黄色其ノ他ノ中性色」[注釈16]と記している。この改定においても、「昇降口ハ成ルヘク男女ヲ区別シ常風ノ方向ヲ避クヘシ」[注釈17]の項は変わっていない。
 明治40年の『青山小学校要覧』には次のように記している。
 

[図35]小学校用机及腰掛寸法表

 
      教室備品掛内規
  第一 類別
  教室備品トハ教卓、教壇、椅子、教室、黒板、黒板拭、白墨入、学級札、時間割札、生徒座席表、地図掛、寒暖計、生徒用机、腰掛、箒(ホウキ)、塵(チリ)払、水入、墨汁壺、児童出欠席印章、唾壺(タンツボ)、撒水器、窓掛、其他教室ニ備フ可キモノヲ云フ
  第二 定期貸出
  各一学期ノ始メニ夫々必要品ヲ各教室ニ配置ス可シ
  第三 整理法
  学期末ニハ各教室ヨリ取集メ補足又ハ修繕セシメタル上一定ノ場所ニ保管シ置クベシ
  第四 購入法及修繕
  一 新ニ購入セントスル時ハ請求簿ニ記入シ校長ノ認可ヲ得テ購入又ハ修繕手続ヲナスベシ
  一 購入シタルモノハ必ズ原簿ニ記入スベシ(但主任之ヲ司ルモノトス)
 
関連資料:【文書】教育行政 <参考>小学校設備の基準
関連資料:【文書】小学校教育 二部教授認可