学校設立、維持、運営に、地域の人々は多くかかわってきたのであったが、教育の内部まで関与することは少なかった。
初メテ父兄懇話会ヲ開設ス 当時大ニ教育ノ効果ヲ期スルニ於テ家庭トノ連絡接近ノ必要ヲ叫ビ遂ニ父兄ヲ学校ニ招待シテ学校ノ持セル方針等ヲ父兄ニ告ゲ且ツ生徒ノ学校生活ノ模様並ニ家庭ニ於ケル動作ニツキ受持訓導ト対談親話セシメ以テ児童ノ育成上ニ於テ切ニ裨益(ヒエキ)スルトコロアラシメンコトヲ期シタリ(『南山小学校沿革誌』明治30年)
[図50]父兄懇話会・明治34年南山小学校
ところが、明治34年に、次のような記事がある。
一月廿六日 父兄懇話会ナルモノヲ始((ママ))メテ開キ、生徒ノ父兄ヲ学校ニ招集シテ、校長及ヒ受持教員ト直接談話問答シ、又生徒ノ成績ヲモ展覧セシメ、以テ児童教育ノ上ニ便宜ヲ求メンコトヲ期シタリ[図50]
「当時の親たちは、全く学校まかせで保護者会を開いても集まる親はほとんどない状態で、呼び出しがあると、子どもが何か悪いことでも…と考えた時代」(『南山小学校沿革誌』)であったという。
これより前、明治23年、飯倉(いいぐら)小学校では「学校と家庭との申合と題するものを印刷し生徒に配布」した。家庭への連絡は口頭で行われ不徹底が多かったのであろう。明治40年設立の筓(こうがい)小学校では次の資料のように父兄に対して話す内容の第一に、学校家庭が一致して教育に当たるべきことをあげている。
本会は明治四二年一一月四日本校児童修学上の便益を図り、兼ねて学校と家庭との連絡を親密ならしめ以て児童教育上に裨益を與ふるを目的となし設立せられたるものにして、草野武雄、上田敬太郎、柴田清右衛門等の諸氏の主唱にかゝるものなり。当時学校当局に於いても其の意の存する所に共鳴し、山田、永塚、関山、赤井、瓜生、岩船の諸訓導、榎本校長より之が委員を委嘱せられたり。
即ち学校当局との意見の一致は本会の礎石を益々強固ならしむる因となり、其の年十二月九日に到り設立会に於いて鍋島子爵会長に選挙せられたり。
明治42年、麻布小学校においても保護者会設立の準備が進められ、同年12月、児童保護者会が設立された。
初期の活動として、会員より会費を徴集し、鉛筆、筆、紙類の学用品を児童に配給した。更に運動場の改善、運動器具の購入などに尽力した。
麻布尋常小学校児童保護者会規約
第一条 本会ハ麻布小学校児童修学上ノ便益ヲ図リ兼テ学校ト家庭トノ連絡ヲ親密ナラシメ以テ児童教育上ニ裨益(ヒエキ)ヲ與フルヲ目的トス
第二条 本会ハ麻布小学校児童保護者会ト称シ事務所ヲ麻布小学校内ニ置ク
第三条 本会ハ麻布小学校児童保護者及篤志者ヲ以テ組織ス
第四条 本会ニ於テ執行スル事業左ノ如シ
一 児童ニ学用品ヲ給与シ及貸与スルコト
二 児童学用品ノ共同購買ヲ周旋スルコト
三 児童学業奨励ヲ図ルコト
四 学校ト家庭トノ連絡事業ヲ援助スルコト (以下略)
明治40年の『青山小学校要覧』には、「家庭心得」の項がある。それによると、学校教育と家庭教育との一致を説き、
家庭教育ヲ司(ツカサド)ルモノハ能(ヨ)ク学校教育ノ方針及方法ニ通ジテ協力セラルベシ
とし、その主旨により、毎年2回父兄懇談会を開くほか、「通信簿」によって日々の連絡をすることにしている。
明治43年には南山小学校の保護者会成立の記事があり、その翌年44年には、南海小学校、白金小学校と、相次いで保護者会が設立されている。
これらの状況から、明治40年代に至って港区地域の各小学校の保護者会は、次々と組織され、学校と家庭との連絡、相互理解に努めると共に、後援会的活動も行っていたことがうかがえるのである[図51][図52]。
[図51]父兄談話の要項・麻布小学校
[図52]保護者会の様子・明治40年赤坂小学校
関連資料:【文書】小学校教育 南海小学校保護者会
関連資料:【文書】小学校教育 氷川小学校保護者会
関連資料:【学校教育関連施設】