学習の様子

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 明治19年(1886)の「小学校令」のころから始まった「生徒心得」の指導内容や方法は、すっかり学校生活に定着した。
 教室内の起立、着席の姿勢や、発言時の注意等、細かくきびしく定められていた。
 

[図53]周年記念式・明治44年麻布小学校

 

[図54]通学かばん・明治末麻布小学校

 
  服装はかすりの着物にはかまでした。女子はめりんすの着物でえんじのはかまをはいていました。組で二人か三人ぐらい洋服を着たのがいました。その当時、靴をはいてきたのはまれで、ほとんどがぞうりでした。
  また、学校へ通うには、ほとんどがふろしきに本を包み、背中にしょって行きました。
  科目なども、算術とか読み方、綴り方、書き方、唱歌、図画等で、上級生になると芝公園などに行って写生をした思い出があります。(明治38年『桜川小学校記念誌』)
 
  当時の身なりは、男女とも絣(かすり)の着物で、下駄か、草履ばき、男子は帽子をかぶりました。髪は、男は丸坊主、女は三ッ編みのお下げでした。学習用具は、ズックの肩かけカバンに入れてくるのは良い方で、貧しい人は、風呂敷でした。弁当は、アルミの箱に麦飯。おかずは、のりじきに、一銭五厘の鮭の切り身ぐらいでした。中には、昼時、女中が暖かいのを届けてくるのがあり羨(うらやま)しく思いました。相良先生の弁当を十一時半になると、氷川様の前のお宅まで、よく取りにいかされましたが、当時は自慢にしていたものです。(記念誌『麻布台』 明治43年卒業生)
 
  日露戦争直後の社会情勢のためか、毎朝一時間目は修身で、君に忠義、親に孝行の道を教えられました。又、地理、歴史の時間が重要視され、よく地図を書かされました。校庭の土手に『日本旅行』という小道が作られ、北海道から九州までの土地の様子が勉強できるようになっていました。これは、五年生の時、山口先生が作られ、地名を覚えるのに、とても役に立ちました。理科は四年生からやりましたが、先生がわからず、おっかなびっくりガラスびん等を持って実験をやった記憶があります。ノートは今のような線の引いたものはなく、白紙のものでした。一年生は石盤を使っていました。又、今のような時間割がなく、毎日、全部の本を持っていき、先生のご都合で勉強したようでした。五年生になって時間割ができ、三時頃まで勉強しました。絵の具は六年生になって初めて使いました。それまでは、もっぱら墨絵をやっていました。
  又、当時は、学校からの印刷物など全く無く、口伝でしたから、親に伝え忘れ、困ることもありました。試験なども問題は黒板に出され、白紙に写してから、解答しました。(記念誌『麻布台』 明治43年卒業生)
 
 学用品はてい重に扱うようにし、相互間の貸借も許されなかった[図55][図56][図57]。
 

[図55]赤坂小学校児童心得・明治40年

 

[図56]児童の卒業記念作品・麻布小学校

 

[図57]始業式前の児童たち・明治36年麻布小学校

 
関連資料:【文書】小学校教育 鞆絵小学校児童心得
関連資料:【くらしと教育編】第4章第2節(1) 和洋折衷スタイル