手伝い

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 明治20年代の公立小学校に入学するような子どもの多くは、比較的高位高官の人や金持といった家庭の者が多く、将来は官公吏や学者になろうという希望者で、商工業者の子弟のほとんどは私立小学校や私塾に通うのが一般的な風潮であった。見習い奉公に出すには10歳前後までが限度で、それ以後になると修業は間に合わないと考えられていた。
 
  当時は……誰でもみんな、年期奉公に行ったわけです。……十か十一ぐらいまでが最高でしてね。十三になったんじゃ、もう奉公に出る者がいないんです。ですから、その年になると、どんどん学校を下がってしまう。
 
 義務教育延長の実施が見おくられていた裏には、こんな事情もあったのである。
 
  夏休みは今と同じように四十二日間ありましたが、どこかに連れていってもらうことは、全く考えられない時代でした。むしろ、家事の手伝いをする期間のようでした。宿題はおもに日記と天気を記録することでした。(記念誌『麻布台』 明治43年卒業生)
 
 明治42年度(1909年度)の夏休み宿題の結果について、筓(こうがい)小学校の梗概(こうがい)にくわしく記されているが、各課題を完全にやりとげている児童は半数に満たない。その理由として、
 
  先ヅ第一ニ手伝ヲ要求スル家庭多ク従ッテ児童ハ復習ヲ強ヒラルゝコトナキ故知ラズ知ラズ放擲(ホウテキ)セシナランカ
 
と考察している。児童の状況調査の項を見ると、手伝いの種類は学年によって違いはあるが、使い、子守、手伝い(掃除、ランプの掃除、茶碗洗い、湯沸(ゆわかし)、水撒(みずま)き、水汲(みずく)み、洗濯)となっている。

[図59]子供の生活(児童作品)

関連資料:【文書】小学校教育 笄小学校夏期休暇中の児童の状況