教員養成と任用

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 「学制」以来、諸種の教員養成機関が創設され、教員養成の機能を果たしてきた。しかし師範(しはん)学校出身で正規の課程をおえた教師が現場で多数を占めるのは、明治末期を待たなければならなかった。それまでは、准教員や、各種検定による正教員が多かった[図2][注釈1]。
 明治23年(1890)「小学校令」の改正が、同25年4月より施行されるに先立ち、教員の調査が行われた[図3]。その調査によると芝区内7公立小学校の教員41名中、師範学校卒業者は4名であった([図4]はその1年後の表)。
 明治25年7月、「尋常(じんじょう)師範学校生徒募集規則」が改正、公布された。この第3条で
 
  土地ノ情況ニ依リ女生徒ヲ置カサルコトヲ得、此ノ場合ニ於テハ男生徒ノミヲ以テ定員ヲ満スヘシ
 
とされた。東京府は、これまでの例により女生徒を置く必要はないと考えていた。
 東京府に女子師範学校が開かれるのは明治33年4月である[注釈2]。それまでは、府立高等女学校や東京府教育会附属伝習所の卒業生、あるいは教員検定試験によって女性教員を供給していたのである。
 そんな状況の中で、東京府の正教員不足は「簡易科設置」を必要とした。明治26年4月より、東京府尋常師範学校内に、修学年限2年4カ月の簡易科が設置された。
 

[図1]明治の教職員・明治43年麻布小学校

 

[図2]無試験検定を示す履歴書・明治34年(東京都公文書館所蔵)

 

[図3]小学校教員調査表(東京都公文書館所蔵)

 

[図4]明治25年3月28日芝区小学校教員調査

 同年3月、尋常師範学校は、小学校教員講習科を設置するよう上申した。
 講習期限は2年、日数は毎年42週とし、時数は1科目ごとに毎週2時とした。有期免許状の多くは、その期間は5年で、更に延長認可を求めなければならなかった。師範学校は、募集人員が少ない所へ多勢の志願者が集まり、合格者はエリート的な存在であった。
 人材の確保と安定した教員の供給のため、尋常師範学校生徒には完全給与制が行われた。
 明治24年、文部省令「小学校教員検定等ニ関スル規則」により東京府は同25年3月「小学校准教員検定ニ関スル規則」を定めた[注釈3]。准教員免許の有効期限は5カ年であった。更に小学校教員検定について東京府は同年細則を定めた。
 公立小学校の不足を補うために置かれていた私立代用小学校は、正教員を得がたいため准教員を以てあてた所が多かった。ところが明治24年の省令第19号「小学校教員検定等ニ関スル規則」によると、准教員が正教員の検定を受けるには、1カ年以上公立小学校教員でなければならない。そこで東京府は私立代用小学校の准教員も公立小学校准教員と同様に扱うように道を開いた[注釈4]。東京府にあっては、私立代用小学校が就学を支える意味が大きかったからである。
 女性教員の任用については、高等女学校卒業生中、実地授業を終えた者すべてに教員免許状を与えてきたが、資質向上を求めて、明治25年、「教員免許状ヲ援与スヘキ者ノ標準」を次のように定めた。
 
  一 学業ノ成績各学科平均点五十以上、通約平均点七十以上ニシテ、教員会議ニ於テ教員タルニ適当ト認定シタル者
 
 明治24年に文部省から出された「小学校長及教員ノ任用解職其他進退ニ関スル規則」第3条によると、正教員不足のときには准教員を任用することを認めたが、「一時教授スル准教員ハ其年齢男子ハ二十年以上女子ハ十八年以上ナルコトヲ要ス」として一方で正教員不足の実情を認めながらも「相当ノ資格アル者ヲ任用スヘ」きことを求めていた[注釈5]。体育科は専科教員を置くことができたが、明治37年、漸次学級受持教員が受持つようにとの知事からの通牒(つうちょう)が出された。
 小学校長は、本科正教員が兼任するのが常例であったが、専科正教員が兼任する特例も認められていた[図5][図6][図7]。
 小学校教員体制の整備は急速に進められ、教育の充実がはかられていった。教員不足解消のために、東京府教育会始め、区の教育会の教員速成伝習所が設けられ、講習会も開かれていた[図8] [注釈6][注釈7]。
 教員の移動は頻繁(ひんぱん)で、自らの意志で、自由に各地の小学校を移動していた。小学校から師範学校へ、またその逆もあった。師範学校令以後は、卒業後の服務について規定されたこともあり、師範学校卒業生は教職以外の道を選ぶことが困難な状況になった。
 

[図5]芝区「教員の試用指令案」(東京都公文書館所蔵)

 

[図6]教員任用上申書(東京都公文書館所蔵)

 

[図7]小学校長任命辞令案(東京都公文書館所蔵)

 
  明治三九年四月一日東京府立女子師範を巣立った私どもは、一枚の卒業証書を手に学校の指示通り市役所へ辞令をいただきに参りました。時の市長奥田毅人先生は、辞令を渡される際「君達は『希望を持て』これが君達をむかえることばだ」と申されました。
  市役所を出ると一同別れ別れになり自分の赴任後の区役所へ参ります。私は一人になって芝区役所へ行き、区長風祭甚三郎先生に御挨拶申し上げました。大変親切な方で女子の新卒を一人採用できた事を喜んでおられました。いよいよ学校入りです。区長さんが芝公園は淋(さび)しいから女一人ではあぶないと申されて、小使さんを学校まで送らせてくれました。其の時のうれしかった事は今でもよく覚えております。(中略)
  それから先生方の出身校は師範系半数その他は検定、代用合わせて半数位、中々学力のある方が多いので驚きました。先生方の中には種々変った方がいましたが、中でも保科先生と申し上げる方は六十才位で旧旗本で大変学力があり、徳川時代の事は何でも知っておいでになり誰にもお教え下さいました。そして、何となく優雅な人柄と見受けられました。
 (『芝小学校記念誌』)
 
 明治40年に至って、ようやく師範学校卒業生が、現場教員の過半数を占めるようになった。
 

[図8]教員の研修を示す履歴書(東京都公文書館所蔵)

関連資料:【文書】教職員 桜田女子小学校教員の任用
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