[図11]小学校教員の給料と旅費・明治29年東京府(東京都公文書館所蔵)
[図12]小学校教員の給料、旅費の標準・明治30年東京府(東京都公文書館所蔵)
明治23年(1890)の「小学校令」では、教員の給料の若干分を、土地の使用又は物品によって換給し得るという制度を初めて認めた。
授業料の額は、さまざまな問題を起こしたため、小学校教育費国庫補助を求める声が多くなり、これと同時に、教員の俸給国庫補助に関する請願も提出された。この請願は、明治26年に採択された。
また「市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法」が明治29年に制定された。しかしこれは教員の年功加俸を国庫から給与するという特殊なものであった。この規定は不完全なものであるとして、明治32年に公布された「小学校教育費国庫補助法」により、廃止されることになった。
日清戦争をはさみ、物価上昇は著しいものがあった。明治20年代には、1升5銭を割って4銭なにがしかであった米価が、同31年には1升18銭あまり、つまり4倍ほどになっていた。給料は物価上昇に追いつけなかった。なお、『文部省第二三年報』によると尋常(じんじょう)小学校本科、専科正教員および准教員の給料平均6円32銭余、高等小学校の本科・専科の正教員および准教員は平均8円40銭余である。
日清戦争中工場労働者の賃金上昇はあったが、教員の場合には、その立場上ベースアップを求める声はほとんどなかった。しかし、明治28年になると、教員の月収の低さを論じる声は大きくなった。
俸給は少なくても、教員としての品位を保つことが求められた。「洋服、袴、羽織、相当の家屋、靴、帽子、交際費等衣食住の為に費す所少なからず」(『教育時論』372号・明治28年)その上、講演会、講習会への参加、修学修行のための旅行準備、そして、教員懇親会会費などといった出費も加わった。
明治30年には市町村立小学校教員俸給が、次のように定められた。
第三条 市町村立尋常小学校本科正教員月俸ノ平均額ハ人口十万以上ノ市ニ在リテハ十六円其ノ他ノ市ニ在リテハ十四円トシ町村ニ在リテハ十二円トス
市町村立高等小学校本科正教員月俸ノ平均額ハ人口十万以上ノ市ニ在リテハ二十円其ノ他ノ市ニ在リテハ十八円トシ町村ニ在リテハ十六円トス[注釈11]
そしてまた、[図13]の金額を下ることのないようにとも定めた。
明治27年から32年までに、日用品の物価は、平均71パーセントあまりも騰貴(とうき)していた。この割合で考えれば、10円の給料は17円に適用されるのが当然になってくる。
低賃金ゆえに教職につくものが少なく、いったん教職についてもすぐ他へ転職するといった状態があり、教員不足はきわめて深刻であった。
このころの物価を調べると、東京での大工手間賃1人1日あたり66銭、白米10キログラム1円12銭、自転車(アメリカ製)200円という時代であった。
[図13]小学校教員俸給
関連資料:【文書】教職員 明治初年の教員待遇
関連資料:【文書】教職員 年功加俸内申
関連資料:【文書】教職員 <参考>赤坂小学校教職員給料一覧