教育費国庫補助を求める運動がもり上がり始めていた時期であった。
遺族扶助料は、小学校教員恩給予算の内、扶助料より支出するものとし、
遺族扶助料ハ死亡当時ノ月俸本俸加俸合セテ参拾六円八拾銭ノ年額四百四拾壱円参拾銭ノ二百四十分ノ六十一ノ三分ノ一即参拾七円四拾壱銭参厘之ヲ四期ニ分テハ毎期ノ給額ハ九円参拾五銭参厘余トナル依テ末期ノ給額九円参拾五銭四厘トシ本年四月ノ給額ハ参円拾壱銭八厘トス
のように算定することを定めた。
明治29年に制定された「市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法」は、同一小学校に5年以上勤続した者に対して本俸の15パーセントを加算し、更に5年たつと10パーセントが加算され、35パーセントの上限でストップするというものである。これによって正教員の転任、離職をくいとめようというものであったが、「此小額の増給を頼みて悠々(ゆうゆう)其職に安ずるもの果して幾何(いくばく)ぞ」(『東京日日新聞』明治29年)といった批判もあった。
同32年「小学校教育費国庫補助法」が成立したが、公布後開会された議会で早くも廃止が図られた。運用しだいで補助金の無制限な増大も考えられたからであった。
[図14]小学校教員遺族扶助料給与伺・東京府(東京都公文書館所蔵)
[図15]小学校教員異動調査年功加俸と時間外手当(東京都公文書館所蔵)
日清戦争の賠償金の中から小学校教育費を捻出(ねんしゅつ)しようという「教育基金特別会計法」及び「教育基金令」は、同32年に公布され、これを元金とした利子分で小学校教員の奨励費と校地校舎等の施設費への貸付金とすることになった。
明治33年3月「市町村立小学校教育費国庫補助法」の公布によって、小学校教員の年功加俸、特別加俸に対する国庫負担の制度が、ようやく確立したのである[注釈12]。
明治40年4月、正教員について大都市では24円、中小都市20円、町村16円と月俸の最低額を決定し、同年5月、府県費から国庫補助と同額を市町村立小学校に支出することを定めた。そしてこの金額をもって市町村立小学校教員加俸の支出と教員住宅費補助に当てることとし、明治41年住宅費補助を定めた。この規定により東京府令が出され、更に翌41年5月には、賃借料を支払う場合も加えられた。
退職者には退隠料証書が出され、退隠料が支給されるようになった[図16]。
[図16]退隠料請求書教員住宅費補助規定の改正(東京都公文書館所蔵)
また、次のような特典も認められていた。
教員ニシテ在職ノ儘小学校教員講習科ニ入学スル者ニハ俸給ノ一部若ハ全部ヲ給ス但シ其額ハ府県知事ニ於テ市町村、学校組合又ハ区ノ意見ヲ聞キ之ヲ定ムヘシ[注釈13]
明治30年1月に定められた市町村立小学校教員の俸給は、月額平均を定めていたが、最低賃金を定めるものがかえって増額を止める形にあらわれ、また、男女教員の俸給差を公認していた。明治40年の義務教育年限延長により、教員不足は更に深刻になり、女性教員の数が多くなったこともあって、男女俸給均一論や産休補助などの問題も出された。しかし、女性教員の待遇改善は遅々として行われなかった。
明治44年10月、市町村立小学校長を奏任官待遇とする道が開かれた。
関連資料:【文書】教職員 年功加俸内申