ところが、「判任官俸給令」の制定、判任官の官等の廃止があったため、同年11月、再び名称待遇が改正され、市町村立小学校長及び教員の名称は、・小学校長・訓導・准訓導の3種とし、訓導とは「小学校ノ正教員タル者ノ名称」准訓導とは「小学校ノ准教員タル者ノ名称」とした。そして「市町村立小学校長及正教員ハ判任文官ト同一ノ待遇ヲ受ク」と改められた。
「小学校令」を受けて、文部省は明治24年5月「小学校正教員准教員ノ別」を公布したが、これは「専ラ学修若クハ試験ノ学科ニ依リ、将来ノ希望ヲ標準トシテ制定シ、現在ノ成規ト実地ノ経歴等ヲ斟酌スルノ精神ニ乏シキカ故ニ、往々実際ノ情況ニ反」するということで、同年11月、これも改正されることとなった[注釈14]。この改正は、明治23年の「小学校令」以前に小学校教員の資格を得た者に対する規定であった。実施は同25年4月とされたため、東京府では教員の中には資格変更の必要のある者もあると考え、各郡区長へあて小学校教員調査を命じた。その「記載方法心得」には
一 従来訓導タリシ者ヲ四月後准訓導ニ、又高等科訓導タリシ者ヲ尋常科訓導ニ、尋常科訓導タリシ者ヲ高等科訓導ニ、専科教員ヲ本科教員ニ、本科教員ヲ専科教員ニ変更スル等ハ、右相当ノ欄内ニ詳細之ヲ記入スヘシ
一 従来訓導ヨリ授業生兼務ノ者ニシテ、四月後本官兼務ノ変更ノ見込アル者ハ、詳細右欄内ニ記入スヘシ
一 右ノ内三月三十一日解職見込ノ者ハ、其旨ヲ記入スヘシ
とある。各区ともその対応に追われたものと思われる。
先生は何でも十二、三名おったように覚えていますが、余りに交代が頻繁な為にその氏名などなかなか覚えていません。何しろ在学中に五、六名も先生が代ったのですから、その在校期間は僅かに三、四ヶ月から一年位の所で二、三年も居るような先生は滅多にありませんでした。中に稲垣という首席の先生が珍しく三年程居られたように思いますが、その先生だけは今に印象が深く残っています。
(『桜川小学校百年記念誌』)
明治24年入学者の回顧談である、同じような状況は他校においても見られる。『桜田小学校沿革誌』には[図17]のように記されている。
[図17]教員異動のはげしさを示す記録・明治25年(『桜田小学校沿革誌』)
桜田小学校の教員構成をみると、明治37年には学級担任中准教員は3名おり、正教員と並記しているのに対し、2年後には学級担任中に准教員の記載はすでになく、教員補助・唱歌として2名が記されているだけである。教員の平均年齢は、同39年の場合、校長まで含めても30歳にしかならない([図18]の表中、村田猛は校長で、各級修身科一部とある)。
学校長については、明治23年の「小学校令」では「小学校ニ於テ三学級以上ヲ設クルトキハ学校長ヲ置クヘシ」[注釈15]と定め、同33年の改正では「市町村立小学校長ハ其ノ学校ノ本科正教員ヲシテ之ヲ兼ネシムヘシ」[注釈16]と定めた。
[図18]教員の担任の様子・明治37年桜田小学校
青山小学校の記録によると、明治8年から同13年までは「主宰」の名称、同14年から16年「教頭」、17年「首坐」、同年5月に「校長」の名が初めてあらわれる。沿革誌によれば「明治廿三年六月桜井光華当校々長ニ就任ス 其以前ハ主宰又ハ校長ノ交迭(コウテツ)頻繁」と書かれている。
明治31年、公立学校に学校医をおくことが勅令により定められ同年2月の「学校医職務規程」で学校医の資格が定められた。翌32年には、麻布小学校、桜川小学校等に校医委嘱の記録が見られる。青山小学校では、すでに同28年に、校医として詫摩武彦の名が挙げられている。学校医の規定制定により同氏は一たん校医を辞し、改めて正式に校医となった。同氏は地域の有力者であり、学校の後援者でもあり、後に青山師範(しはん)学校の校医もつとめた[図19][図20][図21][図22]。
[図19]芝区小学校教員表・明治31年(東京都公文書館所蔵)
[図20]麻布区小学校教員表・明治31年(東京都公文書館所蔵)
[図21]赤坂区小学校教員表・明治31年(東京都公文書館所蔵)
[図22]麻布区学校医上申書・明治32年(東京都公文書館所蔵)
関連資料:【文書】教職員 麻布区学校医の嘱託
関連資料:【文書】教職員 芝区学校医の嘱託
関連資料:【文書】教職員 桜川小学校校医の任用