■芝区
明治14年4月創立、同20年規則改正して会務を拡張し、教育講習会などを開いた。
港区地域の3区の中で、最も早くから組織され活動していた芝区の教育会は、明治30年以後は全くふるわず、休会の状態であった。明治42年4月臨時会を開き、徳川達孝伯爵を会長に推戴し、風祭甚三郎を副会長とし常任議員30名を選定した。同年12月臨時総会を開いて、会則を改定して活動を開始した。
主要な主催行事は、教育功労者表彰、講演会、映画会、管外視察、児童剣道大会、資金募集演芸会、入営者予習会などであった。
■麻布区
明治29年6月 区内教育の普及を図る目的をもって、当時の学務委員黒田綱彦、本山漸、麻生武平等の主唱によって設立された[注釈21]。
本年ヨリ区教育会ノ催ニテ児童ニ水泳ヲナサシム水泳場荏原郡大井村海浜ニシテ高等男生及本校出身者ニ随意来泳ヲ許ス、往復電車割引等十分ノ補助ヲ与フ、児童有志者四十名、監督田中准訓導補助庄崎・片岡・詳細別記水泳日誌ニアリ
(『麻布教育会会報』)
明治41年度の会報によると、その事業として救急法講習会、水泳会、通俗講談会、教育功労者表彰式挙行、父兄懇話会費補助、学用品給与、書籍発行、附属幼稚園運営等を行っている。これら諸事業のうち、附属幼稚園運営は、他区教育会にみることのできない画期的な事業であった[図26]。
[図26]麻布区教育会の私立幼稚園設置・明治40年(東京都公文書館所蔵)
我が附属幼稚園は本会が日露戦役戦捷(しょう)記念事業として且は戦後本会事業更張の第一着手として明治四十年(一九〇七)四月一日設立したる本区に於ける唯一無二の幼稚教育機関なり而(しこう)して本会がよく此一大事業を容易に施設し得たるは一に徳川伯爵家より非常の篤志もて其敷地建物の無料貸付の恩恵を与へられたるに由るものにして実に感謝措(お)く能(あた)はざる所なり
前年度に於ては草創の際とて所謂準備時代に属したりしが本年度に至りては漸く整頓時代に向ひて着々進捗(ちょく)の域に入りたるは誠に喜悦に堪へざるところにして関係職員諸氏の労を多くせざるべからず(明治41年『麻布教育会会報』)
麻布区飯倉の徳川邸内に麻布区教育会附属麻布幼稚園として設立した。園長は東久世通禧、主任保母吉住幾久江・3歳児より定員120名、保育料1カ月1円20銭を徴集した。同45年6月筓(こうがい)町の空寺であった慈眼院に移転した(後述)。
父兄懇話会費補助は、明治36年度 麻布小学校ヘ11円83銭、南山小学校の7円12銭、飯倉(いいぐら)小学校へ8円、筓小学校へ7円50銭を支出したのだが、6月の常会決議に基づき、次のような建議書を区長に提出した。
本区内各小学校ニ父兄懇話会費ヲ支給セラレンコトヲ望ム
右本会常会ノ決議ニ依リ及建議候也
理由 小学校ト家庭トノ連絡ヲ図リ気脈ヲ通スルハ児童教育上須要タルコトハ勿(モチ)論ナルガ本会ハ其ノ一方法トシテ父兄懇話会ヲ開催スルハ蓋(ケダシ)有効ナルベシト思惟(イ)シ去ル明治三十六年度以来各小学校ニ対シ在学児童一人当金壱銭ノ補助金ヲ支出シテ之ガ開催ヲ促シタリ其ノ成績ニ徴スレバ大ニ有益ナル良結果ヲ得タルヲ認ムサレバ今後引続キテ之ヲ施行セシムルハ小学校教育上甚ダ必要ナルコトト信スレドモ本会現在ノ財政ニ於テハ永久ニ之ガ補助金ヲ支出スルノ余力ナキ故ニ冀(コイネガ)ハクハ本区ヨリ之ガ費用ヲ支給セラレンコトヲ
本会規則 (建議書添付)
麻布区教育会規則
第一条 麻布区普通教育ニ関シ有志者団体ヲ設ケ之ヲ麻布区教育会ト称ス
第二条 本会ノ目的ハ区内ノ普通教育事業ノ普及進歩ヲ企図スルニ在リ其事業ノ概目左ノ如シ
一 小学校ニ関スル事 一 幼稚園ニ関スル事
一 児童就学ニ関スル事 一 貧民教育ニ関スル事
一 家庭教育ニ関スル事 一 実業教育ニ関スル事
一 学術ノ講習ニ関スル事
一 教育事業ニ特別ノ功労アル者ヲ表彰スル事
一 孝子節婦其他篤行者ヲ表彰スル事
第三条 本会ハ前条ニ掲ケタル事業ヲ講究シ其実施方法ヲ商議シ且之カ実行ヲ期スルモノトス(略)
3年後の会報にも父兄懇話会に対する補助金支出報告などのあることから、さきの建議は採択されなかったのであろう。
教育功労者表彰は主として皆勤者に対して行われた。学用品給与は生活に困る家庭の子弟に対し、1名につき約50銭相当の物品を頒与(はんよ)した。同44年度からは、巡回文庫の事業を新たに加え、区内小学校および幼稚園職員に供した。
会員は有志の自主的な参加であり、教員以外の住民・学事関係者もふくんでいた。事業も単なる研修事項にとどまらず広範にわたっていた。会費は1カ月30銭であった。会長や役員には、著名な人を推していたようである。麻布区内の教育の普及・進歩を目標として、小学校・幼稚園に関することのほか就学、生活に困る家庭の子女の教育、家庭教育、実業教育、講習、表彰等、当時の教育の諸問題に自主的に取り組もうとしていることがわかる。
この時期、赤坂区教育会は設立されず、大正5年(1916)を待つことになる。
関連資料:【文書】教育行政 学務委員条例
関連資料:【文書】教育行政 麻布区教育会
関連資料:【文書】教育行政 赤坂区教育会