[図27]運動会記録・明治25年桜川小学校
芝小学校の沿革誌にも同様の記録があり、常宮・周宮両内親王殿下より菓子を下賜(かし)されたと記されている。
明治27年(1894)11月、赤坂区小学校連合運動会が、同区内岡部ノ原(新坂付近)で行われた。青山小学校はこの時兵式教練を演じ名声を揚げた。日清戦争のさなかとあって、余興に散兵の演習があり、軍歌を唱えながら帰校したと記している。
更に29年は同所において運動会を催したが「本校ノミノ」とあるばかりで、単独の行事となった理由は何も述べられていない。但し、同年及び翌30年の2年は、九段靖国神社境内での日本体育会主催体育競技会に出場している。この後、同校の記録に連合運動会の記述はない。
麻布区においても、連合運動会の記事が見られる。
下記は飯倉小学校の記録で、明治38年6月のものである。
麻布区公私立小学校聯(レン)合(麻布・南山・飯倉・本村・三河台・宮下)祝捷(ショウ)(海軍五月廿七日大捷アリ)運動会ヲ仙台原ニ行ス参集児童約四五〇〇名、正午ヨリ午後五時マテ其次第次ノ如シ 一 式辞、二 君カ代唱歌、三 尋一旗行列指揮郡司徳次郎、三 尋二鈴割指揮松沢角三郎、四 尋三四女バスケットボール指揮月原俊雄、五 高女旗体操指揮片岡弥吉、六 尋三四男軍艦遊戯指揮守田近三、七 高男兵式体操指揮某、八 万歳区長発声、各学校児童日・英国旗ヲ持ツ、楽隊ハ各小学校附一、又ハ二組位アリテ盛ニ演奏ス
(『飯倉小学校沿革誌』)
同年5月にこの飯倉小学校は三河台小学校と連合で、傷病兵慰問を行っている。
旭旗提灯ヲ掲クヘキ令達アリシ、広尾ナル予備病院傷病兵慰問ノタメ本校児童七三〇名、三河台小学校ト連合シテ同院ニ赴(オモム)キ正午ヨリ三時半ニテ演技十数番(体操・舞踏・唱歌)ヲ行ヒタリ、職員ハ加度・館野・仲村ヲ除キ全出席ス(『飯倉小学校沿革誌』明治38年)
明治の後半、しだいに盛んになってきた運動会も父兄の費用負担の増大や寄附などの弊害が出てきて、連合運動会なども控え目になっていった。