設置にあたっての願にはその目的を
[図1]公立幼稚園設置願・明治23年(東京都公文書館所蔵)
[図2]幼稚園保育課程表・明治23年(東京都公文書館所蔵)
学齢未満ノ幼児ヲ、自然ノ理法ニ基キ優遊・和楽ノ際ニ知ラス識ラス天賦知覚ヲ開発シ、身心ノ健康ヲ保全セシメ、以テ家庭ノ教育ヲ補イ((ママ))、学校教育ノ基ヲナスニアリ
としている。「学校教育の基」という点に公立幼稚園らしさがうかがえる。
保育時間は、4月1日から9月30日までは、1日、3時間とし、10月1日以降は4時間30分としている。
幼児定員は、50名とし、保育には、2名の保母のほかに、助手2名が当たった。
保育料は、1カ月70銭から1円としている。当時の区内の私立幼稚園と比べると、榎坂幼稚園が50銭、芝麻布共立幼稚園が1円であり、公立でも同程度の保育料が必要であった。保育の内容は、当時の幼稚園に準じ、保育用器具に幼稚園「二十種恩物(おんぶつ)」を用いている。
保育用図書は、関信三訳『幼稚園記』飯島半十郎著『幼稚園初歩』桑田親吾訳『幼稚園』日柳喬著『幼稚園案』関信三訳『幼稚園法二〇遊戯』などを用いている。
同園の資料には園の敷地坪数や、園舎の図面が残され、当時の様子をうかがい知ることができる。
また、当園には明治24年9月に北白川宮成久王殿下、同宮貞子女王殿下が、明治26年には、同宮輝久王殿下が入園され、保育を受けられているが、このことからも、当時の幼稚園が、豊かな家庭の子女も対象とした保育を行っていたことがうかがい知れる。
その後、同園は、明治27年4月に、中之町尋常高等小学校が独立・設置されたことを機に、その名称を、中之町尋常高等小学校附属幼稚園と変更した[図3][注釈1]。
それ以後、しばらくは、中之町小学校構内で保育を行ったが、同校の児童数の増加から、教室が不足し、幼稚園の移転が求められた。
明治35年9月赤坂檜町11番地に桑田衡平控家(旧赤坂会館)の一部を区が借り入れ、そこに移転した[図4]。
明治33年に出された幼稚園の年表から、当時の中之町小学校附属幼稚園の幼児数などをみると、保育年限3年、組数3、保母4、幼児数男70名、女59名、本年保育満期男30名、女36名となっている[注釈2]。
[図3]中之町小学校の独立と幼稚園名の変更・明治27年(東京都公文書館所蔵)
[図4]中之町小学校附属幼稚園の移転・明治35年(東京都公文書館所蔵)
関連資料:【文書】幼児教育 私立榎坂幼稚園の設置
関連資料:【学校教育関連施設】