[図6]明治後期設立幼稚園
また、明治32年には、「私立学校令」が出され、私立幼稚園が個人で設置できることになったことに合わせ、幼稚園教育は小規模とし家庭的な雰囲気で行うことを良しとする考えがあった。それらが明治30年代後期に私立幼稚園の新設を盛んにした原因であろう。同時に、これらの幼稚園に通園する園児がいたことは、それまで一部の上流社会の子女を中心に行ってきた幼稚園教育が、中間層の家庭の子女にまで及ぶようになってきたことを示している。港区地域でも、10年代に2園、20年代に3園、30年代後半には11園の私立幼稚園が新設され、そのことを裏づけている。
明治後期に新設された私立幼稚園の概要に関しては、麻布区教育会附属私立麻布幼稚園についてその資料をのせ、その他については、特筆すべき事柄についてだけ略記しておく。
■麻布区教育会附属私立麻布幼稚園
明治40年当時、麻布区飯倉6丁目14にあった徳川頼倫(よりみち)邸の一部を無料で借り受けて幼稚園としたものである。明治40年3月、日露戦争戦勝記念として、麻布区教育会が設立した幼稚園である[図7][図8][図9][図10][注釈6]。
[図7]麻布区教育会附属幼稚園設置進達・明治40年(東京都公文書館所蔵)
[図8]私立麻布幼稚園設置要項・明治40年(東京都公文書館所蔵)
[図9]保育時間と終始時間・明治40年(東京都公文書館所蔵)
[図10]私立麻布幼稚園規則・明治40年(東京都公文書館所蔵)
使用する部分は1階のみで、保育室、遊戯室、玄関、職員室、附添女室、使丁室、幼児寝室、救急医療室などが整えられていた。おのおのに畳を敷き、室内の4分の1が窓で彩光も良く、幼児は足袋(たび)で活動をしていた様子などが設置要項に詳しく述べられている。
設立者の本山漸は、残されている履歴書によると、海軍少将従四位勲四等となっている。海軍兵学校長などを経て、当時は区会議員、学務委員を務めていた。また、明治35年2月17日より、私立庶民夜学校を麻布小学校内を借用して設立し、昼間に余暇のない商工子弟を無料で修学させていた。このことからも教育に対する理解と協力の深さを感じさせる人物であるといえよう。園長は東久世通禧、主任保母は吉住幾久江、その他、保母として、藤沢皐月、儀俄文が保育に当たった。
公立幼稚園は、赤坂区の中之町幼稚園だけで、麻布区にはなかったので、教育会の事業として、公立に準じた内容の幼児教育をめざしたものとして意義が深い(明治41年『麻布教育会会報』)。
私立麻布幼稚園は、その後明治45年6月に、いまの西麻布2丁目、筓町にあった慈眼院に移転した。当時、園児は131名(男75、女56)に保母4名であった。ここは、園舎が麻布区の西端で通園に不便だったためか、移転後は園児が減少し、経営に困難をきたしたようで、大正2年(1913)2月には閉園のやむなきに至った。
■頌栄(しょうえい)幼稚園
明治10年(1877)後半に設立された頌栄小学校や頌栄女学校と同系統の園で同29年開設された。幼稚園の設立者であり園長でもあった西田ケイは、横浜の共立女学校、竹橋女学校で学んだ後、明治14年から17年にかけ、桜井女学校で教員をしていた。その後アメリカに渡り、フィラデルフィアの女子医学校で学び、帰国後慈恵病院婦人科の主任看護婦をつとめ、頌栄女学校で生理、化学、育児などを教えていた。アメリカの幼児教育の影響を受け、生理学などを生かした保育が行われていたのではないかと思われる。
■啓蒙(けいもう)学校附属幼稚園
ミッション系の各種学校に附設された幼稚園で明治37年開設された。設立者の熊野雄七は、明治学院の設立者でもあり、教育に対する業績の高い人であった。
■高輪幼稚園
高輪中学校の敷地内に設立された仏教系の幼稚園で明治42年設立された。本派本願寺から、年額にして554円、下附金として援助を受けていたことが収入内訳の中で明らかにされている。設立者の龍口了信は、広島県の出身であり、明治27年帝国大学文科を卒業している。その後、広島県立中学校教諭、本願寺の教務講習所長等を歴任し、当時は、私立高輪中学校の校長をしていた。
■南高輪幼稚園
高輪から移転した森村学園にある幼稚園の前身で、明治43年に設立された。設立者の森村市左衛門は、天保10年(1839)10月生まれ「明治初年ヨリ現今ニ至ル迄海外直輪出業ヲ営ム」(『森村学園六十年史』)とあるが、その他銀行、鉄道などの事業にも携わった実業家で、死後もその遺体を医学のために献じ、後世にもその名を知られている。
関連資料:【文書】幼児教育 私立青山幼稚園の設置
関連資料:【文書】教育行政 麻布区教育会
関連資料:【文書】幼児教育 麻布教育会付属幼稚園の設置
関連資料:【文書】幼児教育 麻布教育会付属幼稚園
関連資料:【文書】私立・諸学校 森村高等女学校