保母の養成

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 日本で初めての幼稚園であった女子師範(しはん)学校附属幼稚園が設立された際、実際指導にあたる保母を探す苦労は大きかったといわれる。幸い、ドイツ保母学校でフレーベル主義の教育を学び、日本人松野礀(かん)夫人となった松野クララが主任保母として、保育の指導にあたることになり、あわせて、水戸の女学校で教べんを執っていた豊田芙雄と、近藤濱が日本で初代の保母となった。附属幼稚園に続いて、各地で幼稚園が設立されるに及び、保育に携わる資質の備った保母の義成が急務となった。
 日本で初の保母養成機関は、東京女子師範保母練習科であった。東京に続いて大阪でも幼稚園の設立が計画され、そこで必要な保母を養成するために、明治11年(1878)2月、2名の女子を、附属幼稚園に保育見習生として派遣したことが始まりであった。同幼稚園ではこれを受け入れ6カ月間に実際保育を伴いながら、保育法、唱歌、手技製作等の講義を授けた。これを機に11年6月27日、女子師範学校内に保母練習科を設立するに至った。開設当初は幼稚園の数も少なく、保母を希望する者もあまりなかったが、明治20年代に入り、幼稚園の数の増加と共に保母が不足し始め、民間においても保母を養成する機関が現われてきた。
 東京では、芝区の榎坂幼稚園の保母であった湯浅はつの履歴にあった「桜井女学校にて、保母科を修め十八年七月卒業す」ということからもわかるが、桜井女学校幼稚保育科が明治17年におかれたのが最初であった[注釈8]。しかし、私設の保母養成機関として規則、形式が一番ととのっていたのが、明治21年に芝区において設立された、東京府教育会附属のものであった。
 
     東京府教育会附属幼稚園保母講習所
    私立幼稚園保母講習所設置願[注釈9]
  一 設置ノ目的 幼稚園保母ニ必要ナル学科即開誘法諸遊戯及ヒ唱歌等ヲ修メントスル者ノ為ニ専(モッパラ)速成ヲ主トシテ之ヲ設ク
  一 学科学期課程表及教科用図書表別紙甲乙号ノ通
  一 試験規則 試験ヲ分チテ大試験小試験ノ二トシ小試験ハ臨時ニ行ヒ大試験ハ六ヶ月ノ末ニ至リ之ヲ行フ但試験ノ許点ハ一百ヲ以テ定点トシ許点六十ニ満タザルモノヲ落第トス
  一 入学生徒学力及入学生徒年齢 学力ハ尋常小学校[注釈10]卒業以上ノ力ヲ有スルモノ年齢ハ十八年已上四十年已下ノ女子
  一 位置及敷地建物 位置ハ芝区芝公園地内共立幼稚園ヲ借用ス 敷地ハ別紙丙号ノ通(省略)八坪
  一 名称 私立東京府教育会附属 幼稚園保母講習所
  一 入学退学規則 入学セント欲スルモノハ願書ニ履歴書ヲ添ヘテ東京府教育会事務所ニ出スベシ
    退学セント欲スルモノハ其事由ヲ記シテ東京府教育会事務所ニ申出ベシ
  一 生徒心得生徒罰別ニ設ケズ
  一 寄宿舎規則 未設
  一 教科図書器機 一通
  一 起業及終業時間  午後二時ヨリ四時迄トス
  一 休業日 日曜日 祝日祭日
  一 生徒定員 五十名
  一 教員    二名
  一 教員品行学力履歴及学校設立者履歴 別紙丁号ノ通
  一 授業科及経費収入支出概算金百五十円 但一ヶ月金五十銭授業収入金百五十円 支出 内金九十八円 教員俸給、金六円 小使手当、金四十六円 諸雑費
  右ノ通設立仕候ニ付御認可被成下度此段奉願候也
    二十一年九月廿八日
  ([図13]参照)
 

[図13]私立幼稚園保母講習所設置願の付表

 
    教科用図書
  幼稚園遊嬉    一冊
  幼稚園修身ノ話  六冊         東京女子師範学校
  日本庶物示教   三冊  芳川修平著  青木 輔清
  幼稚園動物図解  一冊  関 信三著  東京女子師範学校
  幼稚園唱歌集   一冊  文部省音楽取調     文部省
               掛編纂
                             京橋南飯田町一番地
                               設立者 木寺安敦
    東京府知事 男爵 高崎五六殿
    甲号 学科学期課程表
  教員履歴書
  明治八年東京女子師範学校舎長拝命
  同 九年同校附属幼稚園保母拝命
  同十四年四月辞職
  同十七年七月ヨリ芝麻布共立幼稚園々長仕居候也
  明治廿一年九月廿五日
          芝公園地六十三号
      教員          近藤濱
                  天保十一年二月生
 
 この講習所の当初の入所者は14名ほどであり、そのほとんどは、既に保母であった者や保育補助者であり、再教育も施されていたようである。その後、当講習所は、大正11年(1922)4月に東京府女子師範学校内に移転し、その教育事業が定着した。昭和に入り、戦後の昭和24年(1949)に社団法人東京師範同窓会のもとにその経営が移され、竹早教員養成所となり、現在に至っている。港区で誕生しておよそ100年となる(『竹早学園沿革誌』)。