産業教育の歩み

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 初等・中等の普通教育を中心として教育の普及、拡大に専念していた港区地域では、庶民夜学校における商工科の課程と高等小学校における農業・工業などの選択による実業的な教育が行われていた(第1章第6節 産業と教育参照)。
 明治後期に入り、明治20年(1887)ごろから同28年ごろにかけて、近代的な産業が著しく発達し、産業と生活の近代化が進んだ。このような状況の中で、教育施策の面でも、実業教育の要請が生まれ、その振興に力が注がれるようになった。
 明治26年文相に就任した井上毅は、実業教育の必要を熱心に説き、高等小学の程度において実業補習の規定を設けること、各中学校に、附属する実業学校を誘うこと、一、二の枢要の地において工業学校を補助することなどの構想を示し実業教育に関する諸規程を公布した。その最初の規程として同26年11月「実業補習学校規程」を公布したとき、次のような訓令を発している。
 
  輓近宇内(バンキンウダイ)各国ノ富力ハ年一年ニ倍加シ進テ止マサルノ勢アリ コレ蓋(ケダシ)科学盛ニ興リ其ノ発明ノ応用ヲ各般ノ実業ニ及ホシ細大ノ技術ヲ尽シ以テ百倍ノ生産ヲ収ムルニ外ナラス 我カ国ハ方ニ文明ノ進歩ヲ見ルニ拘(カカハ)ラス此ノ科学的ノ知識能力ハ未タ普通人民ニ浸潤セス 教育ト労働トハ劃然(カクゼン)トシテ殊別ノ界域ニ立チ農工諸般ノ事業ハ其ノ大部分ニ於テ仍(ナホ)旧習ニ沈澱(チンデン)スルコトヲ免レス今ニ於テ国家将来ノ富力ヲ進メントセハ国民ノ子弟ニ向テ科学及技術ト実業ト一致配合スルノ教育ヲ施スコトヲ務メサルヘカラス 殊ニ普通教育補習ノ時機ニ於テ実業ニ須要ナル知識技能ヲ授クルコトヲ努メサルヘカラス 此ノ事ハ既ニ輿論(ヨロン)ノ認ムル所ニシテ方ニ自然発達ノ時機ニ遭遇シタリ
 
 国家の将来の富力増進のため、科学・技術・実業を総合した教育を確立して、産業の盛んな日本の基礎をつちかう必要を強調し、実業補習学校制度の重要性をうったえている。