産業教育は、中・高等程度の教育によって、指導者層を養成することから始められていたため、小学校においては普通教育が重点となり、はやくから産業と結びつけた初等教育はあまり行われず、夜学校、庶民夜学校の商工科の教育、補習科における産業・実業関係の教育、小学校における生活技能的な教育にとどまっていた。しかし、そこにも産業教育への指向がみられるので、以下これらについてみてみたい。明治23年(1890)の「小学校令」に基づき翌24年補習科の教科目及び修業年限に関する規定が定められた[注釈5]。
第一条 尋常小学校補習科ノ教科目ハ修身、読書、作文、習字及算術トス
土地ノ情況ニ依リ日本地理、日本歴史、理科、図画、手工ノ一科目若クハ数科目ヲ加へ女児ノ為メニハ裁縫ヲ加フルコトヲ得
第二条 高等小学校補習科ノ教科目ハ修身、読書、作文、習字及算術トス女児ノ為メニハ裁縫ヲ加フルモノトス
土地ノ情況ニ依リ日本地理、日本歴史、外国地理、理科、図画、幾何、外国語、農業、手工ノ一科目若クハ数科目ヲ加フルコトヲ得
補習科は尋常(じんじょう)小学校、高等小学校を修了した児童を対象として、既修科目中、最も応用範囲の広いものを練習・補習し、加えて将来の生活上に必須な事柄を加えて、実際に役立つようにすることを目的としたものであった。つまり、知識技能を練習補充して、その土地の生業に従事するのに役立たせることが主眼であった。実際の業務に従事しながら就学する児童のために、夜間や休業日等の教授時間選定も考慮することが求められた。また、教授時間が不足するときは、作文、習字の2科目は教授時間を設けず、作文題や習字手本を与えて学習の方法を示し、自宅で学習して之に添削訂正を加えることにしてもよいとしている。このように、実際の状況に合わせた教育が進められるよう配慮されていた。
港区地域内の学校でも補習科を設置した学校は多かった。特に白金小学校では、高等科を置かなかったため、補習科を置くことを願い出ていた点が特色であった。そのほか、代用私立小学校などの私立小学校でも補習科設置願を出している学校が多い。